川本ちょっとメモ

★所感は、「手ざわり生活実感的」に目線を低く心がけています。
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母と離れて暮らした思い出

2009-03-07 13:11:59 | Weblog


私が京都の小学校に入学してまもなく、母が離婚をしました。そして、私は1年生2学期から、二つ年下の弟といっしょに大阪の祖母の家で暮らすことになりました。

母や祖母は、私たち兄弟に事情を説明したと思います。でも、私たちは小さかったので事情を理解できなかった。夏休みに母といっしょに京都から大阪に行き、母は子どもを置いて一人で京都に帰っていきました。私には、そのときの光景が記憶にありません。

記憶にあるのは、それから母が毎月1回日帰りで会いに来て、祖母に仕送りを置いていったことです。そのときはうれしくてうれしくて。そして、母が帰っていくのを泣きながら見送りました。母もまたつらくて泣きたい思いをしていたでしょう。

学期末の休暇に入ると、私たち兄弟はJR(当時は「国鉄」、祖母は「省線」と呼んでいました)に乗って京都に帰りました。京都に向かうときはうれしくてうれしくて。休暇が終わって母と別れるときは、また泣きました。京都への行き帰りは、母がいっしょのときもあれば、私たち兄弟だけのこともありました。

中学1年が終わって、再び母といっしょに暮らせるようになりました。私は中学2年から、弟は小学6年から京都の学校に転入しました。それからは母とともに幸せに暮らすことができました。

それらの寂しかった日々は7年間。母は毎月、ぜいたくなお土産をいっぱい持って来てくれた。預けられたとはいえ、そこは祖母の家で他人の家ではありません(ただし祖母が非常に厳しくてしばしば折檻を受けた)。それなのに、寂しかった7年間の生活や、「おかあちゃん、おかあちゃん」と弟と共に泣いたことを思い返すごとに、亡き母の思い出とともに、今も涙にじむ思いがします。何十年も昔のことになったというのに……。

この思い出は、際立って不幸なお話というものではありません。他人に預けられたのでもなく、母に捨てられたものでもありません。それなのに、そのことを思い起こすと寂しく切ない思いに駆られます。幼少から思春期くらいまでの間の寂しい思い出は、いつまでも影を落とすもののようです。


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