6月23日は「沖縄慰霊の日」、――岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』
岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』
11.摩文仁
11,摩文仁
【学徒隊解散】
1945年(昭和20年)6月18日夜、軍は学徒隊の解散命令を出した。
沖縄師範女子部・県立第1高女のひめゆり部隊の引率教員だった
N琉球大学名誉教授、74歳。
「6月19日午前3時、糸満市いとまんし南波平みなみなみひらの第一外科壕
で生徒に解散を伝えた。外は砲弾のあらし、敵襲は迫っている。上、下
級生が組になって壕を出て行った。 T教頭、O教諭と共に三人で生徒の
あとを追った。難民が右往左往している。砲弾が破裂し、気が遠くなっ
た。国頭にいる、親、妻子の顔が浮かぶ。『N!』と私を呼ぶTさんの
声。頚動脈から5ミリのところから生ぬるい血が流れていた。壕にひき
かえして沖縄県立一中の同期生、H軍医の手当てを受けた。『たいした
ことはないよ』という彼の励ましのことばが、最後の別れとなろうと
は、どうしても思えないのだ」
「わずか数ミリの差で私の生命は絶たれたはずだ。生命ほどもろいも
のはない。生命ほど強いものはないと思う。三十六年間砲弾の破片がま
だ私の体内にあることが今年になってわかったような始末だ。あの負傷
以来四年間は耳もほとんど聞こえなかった」
「ひとり糸満市山城のあぜ道を歩いていた。緑の島は冬枯れの野だ。
沖縄の終えんだ。日本の終わりだ。なだらかな坂をおりる。海風に吹か
れる。しばし戦争を忘れた。モクマオウの茂みに腰をおろすと、故郷の
今帰仁なきじん出身の教え子ら十二人がいた。同行することに決める。
日暮れて砲声やむ。同僚のHY、HS君の二つのグル-プに会い、一夜
をすごす。その前に私は一行とはぐれかかったが、運よく三十余人のも
とへと帰ることができたのだった。われわれ教師三人、生徒たち心づく
しのかゆをすすった。かゆはとろりとのどを通り、そのまま血液になっ
て全身を循環するようだった」
「なぎさの風に当たりながらすごす岩窟の一夜だった。ほかに兵隊が
二、三十人、民間人が十四、五人いた」
「6月20日、目前を往来する米舟艇に息を殺した。HM、HY両グル
ープと別れる。『オヨゲルモノハオヨイデコイ』『ミナトガワヘユケ。
ミズモショクリョウモアリマス』と米軍が盛んに放送する。アダンのか
げで、卵大のおにぎりとアダンの若芽を食べた。降服せよというビラを
破り捨てた。突然生徒 FK子がかけ寄ってきた。彼女は陸軍病院には
来なかったが、泊の部隊に加わり、那覇方面からここまで迷いこんでき
たのだった。『先生、いっしょに連れていって下さい』という。こちら
も途方に暮れているところだったのでしばらくだまっていた。FKはわ
ずかばかり水の入った水筒を差し出し、『覚悟はできています』と二個
の手榴弾を示した。みんなといっしょに死なせてくれという気持ちはよ
くわかった。『では、ついてらっしやい』と同行することにした。生徒
は十三人になった」
「夕方、HM君のグループ十二、三人が通りすぎて行った。
『ぐずぐずしてはいけない。糸満方面へ突破するのだ。明日はこの一帯
は火焔放射器で焼かれるだろう』。生徒たちは、この私をたよりなく思
ったにちがいない」
「6月21日。投降をにくむ友軍が民間人に発砲した。石ノミを拾う。
岩の壁に十四人の名を刻もうと思った。あとでわかったことだが、この
日HMグループは自決したのだった」
「6月22日。食糧はあと-、二日分。生徒は制服をつけ『海行かば』
をうたった。月明かりにアダンの葉の露が光った。6月23日。二キロ先
で米兵が舟をおろしている。青鬼には見えない。ただの人間だ。午前11
時、突如米兵が前方の岩の上にあらわれた。アダンのかげに身を寄せ合
った。小銃弾がビュービュー、アダンの中に飛んだ。『先生、もう覚悟
の時機です』とFK子。手に手檎弾をにぎっている。『F、手榴弾
のセンを抜くんじゃないぞ。死んではいけない』とさえぎった。さっと
押し寄せる米兵、三、四十人。私は銃をつきつけられ、生徒との間を裂
かれた」
11,摩文仁
【水さかずき】
「祖父、祖母、父、母、弟、妹の六人を戦争で失い、生き残ったのは
九州に疎開していた兄、姉、私の三人だけです。反戦平和は私の活動の
原動力です。私にとって、反戦平和のためには労働運動がいちばんいい
場だと考えています。労働運動の中でも、私は賃上げ闘争にはさほど熱
心ではありませんでした」と語る沖縄県労協議長のNRさん、四十九歳。
「1944年(昭和19年)8月14日、疎開のため潜水母艦迅鯨に乗って那
覇港を出発しました。ランチで見送りに釆た父、母、弟と手を振って別
れました。家を出るときかわした水さかずきの意味を知ったのは、ずっ
とあとのことでした。当時私は沖縄県立二中の二年生でした」
「父は北中城村きたなかぐすくそん喜舎場きしゃば国民学校長でした。学
校が閉鎖状態になった1945年春、教育勅語と御真影をささげて、一家
六人あげて首里の壕に入ったのでした。父は軍司令部のあるところが安
全で、司令部とともに移動すればよいといっていたそうです。父は首里
撤退ののち、東風平こちんだの三差路で荷物を天びん棒でかついで家族
とともにいた、という情報を聞いたことがあるだけで、一切不明のまま
です」
「教頭だった前知事のHKさんは、軍の主力がいない所が安全だ、と沖
縄本島北部へと避難されたそうです。慶良問けらま列島の前島で、比嘉儀
清先生という方が日本軍の駐兵をことわって住民の安全を守ったという
話には、大きな教訓が含まれています。そこに軍隊があるから、そこに軍
事施設があるから、攻撃を受け、付近の住民も大きな損害を受けるので
す」
「私は宮崎県の小林中、宮崎中、態本県の御舟中、福岡県の筑紫中
(在学中に筑紫丘高となり、卒業)と転校を重ねました。そのころ、芋
つくり、大豆つくり、ヤミタバコ売り、土方などさまざまな肉体労働を
して暮らしました。よくもまあ、ひねくれたり、ぐれたりせずに青春を
送ったものだと思うことがあります。福岡法務局で戸籍の仕事をしてい
た関係で、1958年(昭和33年)琉球政府法務局の戸籍整備の仕事をす
ることになりました。組合運動は福岡時代からです」
「終戦時の首里市長、NYさんは祖父のいとこで、1947年以来、本土
で『本土復帰期成会』の名のもとに孤独のたたかいをしていました。
態本にいるとき手紙をもらったことがあります。ていよく本土へ追放さ
れた形ですが、沖縄の本土復帰直前に沖縄へ帰り、なくなられました。
私は戦争を防ぐための活動の場を常に労働運動に求めてきました。B52、
原潜、自衛官募集などあらゆる反対運動がそれです」
「おふくろ最後の手紙は米軍の沖縄上陸直前の1945年3月でした。私
が疎開した後に生まれた妹も連れて首里へ行くという内容でした。私は
その妹の顔を見ずじまいなのです」
11,摩文仁
【こわい日本兵】
社会大衆党書記長のZCさん、48歳。大里村銭又の自宅でこわい
日本兵を語る。窓から指さしながら「あのあたり 15サンチ砲が四門、
あの岡の裏側、ここから六百メートルぐらいのところに南風原はえばる
陸軍病院がありました。あのころわが家には家族、難民のほか十七人
の兵隊、全部で三十七、八人いました。1945年(昭和20年)3月23日、
私の国民学校初等科修了を祝ってごちそうの準備をしていました。
ところが艦砲射撃、空襲があってめちゃめちゃ、 兵隊たちは非常召集
で陣地へ入りました。この日から壕生活です」
「5月25日、大雨の中を首里方面の敗残兵があらわれて、『この壕
は軍が使う。出て行け』と日本刀をひきぬいておどすのです。気丈な
私の母親は泥の中にひざまずいて、『もう二、三日待って下さい』と
たのむのですが、『首を切るぞ』といきまくばかりです。とにかく、
母親が『どうか明日まで』とがんばり通しました」
「翌5月26日、壕を出ました。七世帯三十人の大グル-プになってい
ました。三世帯は糸満へ、われわれ四世帯は玉城へ」
「糸数、船越をへて、6月4日東風平、後原くしばる。6月5日富盛、高
良、与座、大城盛おおぐすくむい。6月6日国吉に至り、横穴式の壕を掘
って三世帯十二人が一週間滞在しました」
「6月13日、国吉の隣りの壕に中部戦線生き残りの専門学校出の少尉
がいました。『戦争は勝ち目がない。米軍は女、子どもまでは殺しはし
ないと思います。もし遺族に渡してもらえたら』と懐中時計を差し出し
ました。この日、昼間おじが機銃掃射にやられた左腕が血だらけにな
り、近くの壕にかけ込みました。すると、二人の敗残兵にこっぴどくお
こられました。『壕のありかがわかるじやないか』ということでした」
「これも同じ日6月13日、壕の外でギーギーという異様な物音に外を
見ると米軍の戦車でした。犬死するのもいや、捕虜になるのもいや。い
いよいよ自決しようかという相談になりましたが、母やおじが、『どう
せ死ぬなら大里村の家へ帰って死にたい』というので思いとどまりまし
た。 『もし殺されそうになったら相うちしよう』と確認しあいました。
米兵のクツ音が聞こえる。しかし、彼らは通りすぎてしまいました。ヤ
レヤレというわけです。その夜ほふく前進で丘を越えて真壁に出ました。
6月14日未明でした。二十も三十もある死体の間をもぐるような前進で
した。懐中時計の少尉の遺体もありました」
「6月14日、真壁も死体がゴロゴロしていました。夜中におじ、おば
がまた大里村へ帰りたいといい出しました。新垣あらかきへの移動の途
中、おじ、おばら四人が艦砲射撃で戦死し、私たちのグループは十一人
になりました」
「6月15日朝、新垣もまた死体の連続です。道ばたには母親が赤ちゃ
ゃんをおんぶしたまま倒れていました。母親だけが死んでいるようでし
た。ふたたび真壁を通って米須に向かいます。日本軍のトラックが 爆撃
でつぶされていました。またそこへ爆弾が落ちて、死体の手がピクピク
と動いているのは不気味でした」
「6月16日。米須から大度おおどへ移ります。艦砲射撃やB29、グ
ラマンの攻撃がすさまじい。母が艦砲の破片で頭をやられました。年
をとると艦砲の音のカンがにぶくなるのです。ボンボンヒューという
のは頭上を越えて行きます。ボンボンヒュツというのはすぐちかくに
落ちます。ヒユーツというのは前方に落ちます。それによってもかく
れ方、逃げ方がちがうのです」
「大度でコンクリート貯水タンクにいる日本兵が親切そうに呼ぶの
で近寄ると水をくれました。かわりに食料をよこせというのです。夕
方、別れしなに、みそ、米などの入ったカバンを奪い取られてしまい
ました」
「6月17日、摩文仁まぶにも死体がゴロゴロしていました。全身ほう
たいをした兵隊が日本刀をかかえてくぼみに寝ていました。ちっとも
動かないところをみると死んでいたのでしょう。井戸のそばには水を
ひとくち飲んでこと切れたのでしょうか、死体が横たわっていました。
畑のすみの岩かげに十一人が身をかくすようにして寝ました」
「6月19日、雨が降った。古傘に雨水をためて飲みました」
「6月20日、海岸の絶壁へ逃げる。上半身はだかの米兵のはだが赤く
見えました。数百メートル先の岡には米兵の列が見えるが、タマは来な
い。『戦争は終わりました。降服しなさい。男はふんどし一枚、女は着
のみ着のまま百名ひゃくなか知念へ行きなさい。安全な衣食住が与えら
れます』と米軍が放送します」
「上着をぬごうとした男を兵隊が日本刀でたたき切りました。『きさ
まはスパイだ』と叫びながらなおもずたずたに切り裂きます。もう一人
の男が上着をぬいで逃げた。この男もたたき切られました。私は身動き
もできず、声も出ませんでした」
「敵はありとあらゆるタマを撃ち込んできます。迫撃砲弾、楷散弾、
機銃弾、火焔放射。絶壁を降ります。岩の角、木の根をつかみながら‥
‥、しかし海の中へ落ちてしまいました。海岸にたどりついたのは6月
20日の正午ごろでしょう。八人が集まりました。おじは『港川へ突破し
よう』といいます。私は『あぶない、行かない』と答えます。おじは
『子どものくせに』とカンカンにおこります。私だけは岩の上にすわり
込んで動きませんでした」
「岩かげにかくれ、ミカンの皮、パンくずなどを食べました。6月26
日、いま思えば幻覚症状です。6月27日、とにかく食べてから死にたい
と思 いました。よろけるように米軍の手中に入りました」
「あの岩の上には毎月一度は行きます。あそこに踏みとどまることに
よって生き残ることができたからです。あそこでとにかく一週間すごす
ことで生き残ることができたのです」
11,摩文仁
【友を見捨てる】
鉄血勤皇隊沖縄県立一中隊員だった那覇空港ターミナル会社取締役営
業部長、YYさん、53歳。
「県立一中隊本部を中心にして、われわれは各一線部隊に分散配置さ
れた。私は第五砲兵司令部に配属された。首里から撤退するとき、砲兵
司令官、和田孝助中将のカバンと食用の黒いニワトリなどを持たされ
た。那覇市識名しきなのダラダラ坂を降りるとき、迫撃砲弾が飛び散
り、石の坂はズタズタに切断された。兵隊はゴロゴロ倒れる。カバンも
ニワトリも小銃も捨てた」
「六月はじめ、糸満市南波平に着いたころは学友の大半が戦死してい
た。一日ひとつあるかないかの握り飯、あとはサトウキビのかす、カタ
ツムリを食べての下痢つづきだった。眠ったという記憶もない。なのに
将校達は、女性に異常な関心を持っていた」
「思えば首里の壕。雨にぬれて壕に帰れば壕の壁がしとしとぬれてい
た。発電機がうなる。ガスが出る。上着をふりまわしてガスを排出させ
ようとする。ロウソクが消える。ああ、心臓が痛い。『野戦重砲、三発
撃て‥‥』と怒声がかかる。壕の外へ出る。弾雨はあってもほっとひと
息できる」
「喜屋武きやんの県立一中隊本部指揮班から、われわれの摩文仁の壕
へ連絡にきたMT君が砲弾でおしりに大けがをした。尾てい骨がはみ出
ていた。6月19日、彼をささえつつ喜屋武まで送り届けることになった。
出かける前、ちびれた芋を三つずつもらった。MTのはおれのより大き
いな、と思いながら。水筒に五分の一ばかりの水があった。負傷者に水
を飲ますと死ぬというので彼には飲まさなかった。本心は飲ますのが惜
しくて、飲ませたくなかったのだ。この期において、なんとおれの心は
いやらしいのだ」
摩文仁と吉尾武の間には大度おおどの集落がある。
「大度のアダン林の根っ子には老人や子どもがへばりついていた。乳
飲み児が、死んだ母親の乳房にとりすがっていた。ロケット砲の音で、
ブタ小屋に飛び込んだ。砲撃で手足をもぎとられ、血のりは飛ぶ。泣き
叫ぶ声ごえ、何十台も押し寄せる米軍戦車を見て摩文仁へと引き返し
た」
「夕暮れが迫っていた。米軍のマイクは、投降しなさい、港川へ行き
なさい、と呼びかける。MTは『投降したおふくろのところへ連れてっ
てくれ』という。私には投降する気は全くない。別れよう。彼は『手榴
弾をくれ』、といった。『どうせ、おれもあとから行くからな』と、最
後のことばをかけたように思う。腰の手榴弾をはずした。それを彼に渡
した」
「別れる――それは、友を見捨てることだったのだ」
「MT君と別れた6月19日夜、摩文仁で斬込隊に加わった。ある大男
が逃げようという。『いまさら何だ』と短剣を抜いて飛びかかった。
あやうく上等兵にとめられた」
「摩文仁の岡の上に五十人が集まった。その中に一中の同期生が三人、
一期後輩が七人いた。手榴弾を四発持って身構えた。鉄カブトの穴か
ら入る風がヒユーヒユーと鳴った。跳ね弾がビュンビュンとあがる。
右手にかん声があがって斬り込んでゆく」
「明け方、敵の戦車が火焔放射を浴びせかけてきた。背中に火がつ
く。あおむけにひっくりかえって背中を地面にこすりつけて消す。壕
に飛び込む。だれかが重傷兵の口に銃口を入れて『天皇陛下万歳』を
いわせてとどめをさした。いま一人の重傷兵は『アンマヨー』と叫ん
だ。母親への最後のメッセージだ。米軍の削岩機のひびき。馬乗り攻
撃をしかけてきたのだ。私は胸に爆雷の衝撃を受けてのたうちまわっ
た。友軍の兵隊が顔、胸、腹を踏んづけて出ていった」
「朝。銃声はない。体じゅうが痛い。やっと頭を上げると米兵が三
人、うむをいわさず私を引きずり出した。6月21日だったか、22日だ
ったか。生き残りは私一人だった」
YYさんは、みずから車のハンドルをとって、現地を案内しながら
話をしてくれた。
「毎年6月20日になると、重い足どりで首里の石だたみを踏むので
す。MT君のお母さんのもとに線香をあげに行くんです。『戦争だっ
たんだから、仕方がないさ』と自分に言いきかせ、言いわけをしなが
ら。そのお母さんも亡くなられました。いまでも夜中にふと目がさめ、
じっとしていられなくなるのです。そして、このあたりまで車をとばし
てくることがあるんです」
「MTと別れたのは、このへんだったなあ。私はこの石ころ道をか
け出したんだ。ああ、ツワブキも生えている。こいつはにがいが、食
べられる草はもうこれぐらいしかなかったんだ」
ツワプキをむしりとってにおいをかぐ。線香をたいて手を合わせる。
「ここでは、私に三十六年の歳月はない」
「米軍のとらわれの身となった私はハワイに送られて1947年(昭和
22年)まで過ごす。送還されて石川の砂地のテント生活を三年。米兵
にあごで使われた。1951年(昭和26年)高千穂丸で東京へ密航して、
自由ケ丘の友人の下宿に身を寄せた。あるとき、世田谷・豪徳寺を歩
いていた。ピアノ曲が耳に入った。ベートーベンの『エリーゼのため
に』だった。」
「美しい板塀、大きな松の木に立派な門構え。かわいらしいお嬢さ
んがピアノをひいているのだろう。いったいこれは何なのだろう。お
れたちは祖国日本のために身命を捧げた。どうしてここでおれが憤然
としていなくてはならないのか。おれたちがあんなにがんばって戦っ
たのに、ここ東京では平和どころか、この豊かさは。この贅沢さは。
こんなことを考えるのはおれの甘えなのか」
「そこで、中央大学文学部仏文科に学んだ。名だたる辰野降さんの
講義も聞いた。やがて就職。大手企業は、あ、第三国人ですか、とい
う。ああ、琉球人は第三国人だったのか」