川本ちょっとメモ

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(続続)6月23日は沖縄慰霊の日、『沖縄・八十四日の戦い』 米上陸軍司令官戦死、戦車に轢かれる、日米兵士による虐殺

2020-06-26 04:11:31 | Weblog





引き続き「沖縄・八十四日の戦い」 榊原昭二著を紹介します。原著は1983年5月新潮社刊なので、文中の〇〇年前とか△△歳いう表記は1983年始めごろの時点のものとご理解ください。 文中の沖縄戦体験主の氏名は頭文字表記に、年月日と年齢の表記はアラビア数字に替えました。そのほかは原文通りに写しました。 


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 岩波同時代ライブラリー『沖縄・八十四日の戦い』

 12.両軍司令官の死



 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死
 【バックナー米軍司令官戦死】

  沖縄攻撃の米軍最高指揮官、第十軍司令官サイモン・B・バックナー
 中将は1945年(昭和20年)6月18日に戦死した。場所は糸満市真栄里。
 米軍の公式発表は、日本軍の砲撃によるものとしているが、「私の部下
 の狙撃によるものだ」と沖縄キリスト教短大教授、MSさん、五十七歳。

  「その日の午後1時すぎ、昼食をすまして壕を出ようとした。久しぶ
 りの好天、新鮮な空気が吸いたかったからだ。壕内の陰気さったらない
 のだ。監視兵のO一等兵に声をかけた。軽い冗談でもいいたいような
 気になっていた。Oは口を閉じ、右手の人さし指を口の真ん中に立て
 た。『見習士官殿、お静かに』の合図だ。と、その人さし指を、右前方
 百数十メートルの小高い岡の上に指さした。見ると、ジープから三人の
 米軍将校が降り立った。『O、鉄帽(鉄カブト)をかぶれとHY主計中
 尉。『撃っちゃいましょうか』とO。『命令がなければ撃つな』と
 私。三人の米軍将校の中で、一番かっぶくのいい、年配の人が左手で帽
 子をぬぎ、右手でズボンのポケットからハンカチを取り出した。頭を下
 げ、顔から額の汗をぬぐい上げながら頭を後ろにそらした。一瞬、Oは
 撃った。その将校はどうと倒れた。二人の若い将校がかけ寄って抱き上
 げ、ジープにのせて、さっと立ち去った」

  「O一等兵は東京出身、翌6月19日戦死した。快活な男で、私は彼
 とは約一週間行動を共にした。狙撃兵ではない。使用したのは九九式歩
 兵銃だ」

  MSさんは沖縄県立三中(現名護高校)を経て東京音楽学校(現東京
 芸大)選科でピアノを学んでいた1944年10月、恩納村の山部隊に入隊
 した。甲種幹部候補生に合格、神奈川県下で予備士官教育を受けるはず
 だった。戦局急転で1945年4月、山部隊の歩兵第三十二連隊(原隊は山
 形市)勤務の見習士官として、首里・石嶺町の連隊本部で働いた。日本
 軍の南部退却で、6月7日か8日に糸満市真栄里の連隊経理部壕に移った。
 壕にはHY中尉、下士官数人、兵十数人の計約二十人がいた。MSさん
 は桜の座金
ざがねに伍長の階級章をつけた見習士官だった。壕の右前方
 百数十メートルにバックナーが戦死した丘、左前方数百メートルに連隊
 本部の壕(現在、山形の塔)がある。

  連隊本部付看護婦だったMAさん、五十三歳。「山形の塔の地下に
 あった連隊本部壕の中で、6月20日ごろ、『うちの連隊の兵隊が敵の親
 玉を撃ち殺した』といううわさを聞いた。それがバックナー中将とは知
 らなかった」

  「あの年配の米軍将校がバックナー中将と確信したのは、1952年
 (昭和27年)3月だ」とMSさん。

  「妹とその夫で沖縄出身のハワイ二世、彼の兄弟二人と車で沖縄本島
 南部の戦跡めぐりをした。私は『山形の塔にも行こう』といい、妹は
 『バックナーの丘にも寄りましょう』といった。その小高い丘に立つと
 記念碑があった。鋼板に日英両文で『1945年6月18日午後1時15分、米
 第十軍司令官バックナー中将は……』とあった。『あれがバックナー司
 令官だったのか』と私は絶句した。時間も場所もピタリ。わが経理部壕
 も、その隣りの墓もよく見える。私は七年前の模様を同行四人の者に詳
 しく話した。『へえ、お兄さん。そうだったの』と彼らは声をそろえ
 た。日米講和のころのことで『米軍がうるさいから、この話は当分伏せ
 ておこう』ということになった」

   1945年6月20日付の朝日新聞(東京)第一面トップ左わき、三段見出
 しの記事によると――グアム放送局は6月19日8時30分、ニミッツ司令部
 18日23時30分の公表として「米第十軍司令官中将バックナー(沖縄本島
 米軍陸上最高指揮官)は海兵第八戦闘連隊の先頭を観戦中、18日13時15
 分日本側砲弾により即死した」と報じている。

  米陸軍省編『沖縄――最後の戦闘』によると――「バックナー中将が
 戦闘の進行を視察していた(18日)午後1時15分、日本軍の両用砲(対
 空兼対地砲の意味か?)の一発の砲弾が観測所(バックナーの丘のこ
 と)の真上で炸裂した。炸裂ではね飛ばされたサンゴ礁の破片が中将の
 胸に当たった。中将はその場にくず折れ、十分後に絶命した」

  C・S・ニコルス二世ら共著『沖縄――太平洋における勝利』による
 と「おそらくは丘の上のバックナーら人びとの動きに注意をそそられた
 日本軍が、丘の上に五発の砲弾の照準を合わせていたのだろう。サンゴ
 礁のギザギザの破片が空中を満たし、バックナー中将に致命傷を与え
 た。彼は数分で死亡した」

  バックナーの丘に立つと実に見晴らしがいい。当時は米軍の砲爆撃で
 一木一草もなくなっていたといわれるから、現在よりももっと見晴らし
 がよかったのではないか。それだけに、どこからでも撃たれる可能性は
 考えられる。バックナー中将はあまりに大胆すぎたのか、あまりに不注
 すぎたのか。砲弾炸裂 → サンゴ礁の岩の破片飛散 → 破片命中という
 説明はまわりくどすぎはしないか。




 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死
 【戦車に轢かれる】

  米第十軍司令官バックナー中将が戦死した翌日の1945年(昭和20年)
 6月19日午後5時すぎ、糸満市真栄里、OU子さん、88歳。その次男OR
 さん(当時27歳)は米兵につかまり、射殺されたのち、戦車に蹂躙され
 た。場所は同中将戦死の丘から東北約千メートル。 山形歩兵第三十二
 連隊本部壕(現在、山形の塔)と沖縄県立第二高女生集団自決の白梅の
 塔をへた三差路付近だ。

  ORさんの妻OC子さん、55歳。「6月19日夕方5時から6時ごろで
 した。山形の塔の近くの壕にかくれていたのですが、捕虜になることを
 決め、 夫らといっしょに壕を出ました。夫は防衛隊員でした。具志頭村
 方面に行っていたのですが、けがをして村へ帰ってきていました。戦闘
 帽をかぶったままでしたので米兵が日本兵扱いをしたらしいのです。米
 兵はまず日本兵と沖縄の住民を引き離そうとしていたようです。夫はそ
 れに抵抗しようとして鉄砲で撃たれました……」と口をとざした。しば
 らく沈 黙の時がつづいた。

  「撃たれてピクピクと動く夫にとりすがった義弟(OU子さんの四男
 OUさん)は、銃剣を構えた米兵に足蹴にされた。そのとき戦車が夫を
 轢き去って、南の方へ行った。夫はあとかたもありませんでした」
 妻OC子さんは、あまりのむごたらしさに口をとざしたのだろう。

  母OU子さんにとって、戦争は最も身近な人を三人も奪った。夫OR
 さん(当時54歳)は糸満市真栄里で戦死、長男ORさん(当時32歳)は
 首里の戦いで戦死した。そして話が次男ORさんの死にふれようとした
 とき、絶句した。やさしい老女の表情は、一天にわかにかき曇るという
 感じであった。夫、長男、次男とを次つぎに失った悲しみ。わけても次
 男の死を思う痛いたしさ。

  三男ORさん、50歳。「もうその話はさせないで下さい。あの時以来、
 世の中かわってしまった。私の人生観も完全にかわった。ふと思い出す
 だけでもつらいのに、いま語れば、いちぶしじゅうが、こまかく浮かん
 できて、また夜も眠れなくなるのです」

  「わたしはな、左のお尻を鉄砲でやられてな。胸もタマがこすって熱
 かった」とウシさん。身重だった次男ORさんの妻OC代さんは10月、
 沖縄本島北部の東村古知屋(松田)の収容所で長女を出産した。

  この事件は、『沖縄の証言(下)』(中公新書)148ページの戦争体験
 証言集のなかで、三行ほど、真栄里ではORさんという人が米軍の戦車
 にひき殺された、という、話が雑談中にあったと書かれている。地元で
 もうわさ話になってしまっているようだ。ひとつには、次男ORさんの
 遺族が、あまりのむごさのために、事件にふれたがらないでいることに
 もよるのではないか。  
 (注) 男性のイニシャルはみなORです。

  最初OU子さんにお目にかかったが、次男さんの話のくだりで絶句さ
 れた。収穫中のサトウキビの畑をあちこちさ迷い歩いて事件の概要をつ
 かむことができた。妻OC代さんは昭和26年に再婚、儀間姓になってお
 られ、再婚の夫も死去されたとのことであった。糸満市内でたずねあて
 て、お話をうかがうことができた。

  三男ORさんは事前にお話をうかがいたいとお願いしたがことわられ
 た。四男のORさんは、「私は直接の目撃者ではないから、兄の良明に
 聞いて下さい。話したがらないことはたしかですが、よく事情を説明す
 れば、兄貴はお話しすると思いますよ」と親切におっしゃった。

  申訳ないことを承知の上で、三男ORさん宅をたずねた。三男ORさ
 んは泣かんばかりにして本文のようなことを話された。悲しみも、あま
 りの悲しみはふれずにおこうという、遺族のやさしい心情にふれた思い
 であった。





 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死
 【米兵による虐殺】

  糸満市国吉
くによし、KM、64歳。「そこ、そこ」と指さし ながら恐
 怖のまなざしで米兵による住民虐殺の模様を語る。目付は1945年(昭
 和20年)6月19日と推定される。バックナー米第十軍司令官戦死の翌
 日であり、国吉はバックナー中将戦死の真栄里とは隣接集落である。

  「私は昭和14年徴集の輜重兵しちょうへいで、熊本に教育召集で入隊
 したことがある。戦時中は防衛隊員として糸満市大里の山部隊にいたが、
 首里からの退却部隊とごちゃごちゃになり混乱していた。時どき、自宅
 の壕にも帰っていた。家族は母、私、妻、5歳の長女と3歳の長男の五
 人だった。自宅に帰って四、五日目の午後3時ごろ、五人の米兵が屋敷
 に入ってきて、かくれていた壕の中に黄燐弾を投げ込んだ。妻と長男は
 これがもとで間もなく亡くなった。五人の米兵は南隣りの屋敷へ入って
 行った」

  「パーンと彼らは一発ぶっぱなした。母と長女に集落の壕へ移るよう
 にせかせた。パーンとまた一発。くずれた石垣をのりこえてさらに米兵
 七、八人が隣りの屋敷に入る。メガホンで『デテコイ、デテコイ』とど
 なる。出てきた男たちは一列に並ばされる。パンパン、バタバタ……。
 ひんぶん(犀風=玄関などの前がくし、石やコンクリートでつくる)の
 かげで東の方は見えなかったが、撃たれる人が西へ移るにつれて、バタ
 バタ倒れるのが見えた。女や子どもが泣き叫んだ。何十人もやられたと
 思う。ピストルを持っていた米兵もいたが、撃ったのは小銃だった。背
 すじの凍る思いでぼう然と集落の壕に移った。三日ぐらいして長女とい
 っしょに捕虜になった。母もその時には亡くなっていた。ハワイ帰りの
 人がいて、いまのうちに壕を出ないとあぶない、いま出れば命は助かる
 というので、そのすすめに従った。6月22、23日ごろと思う」

  同じ国吉に住むKYさん、75歳。「うわさに聞いて見に行った。6月
 20日ごろだったと思う。ひどい状態だった。十数人かな。もっと多かっ
 たかな。殺されたのは軍服の人もあり、着物の人もあった。大体防衛隊
 員ではないかと思う。しかも国吉以外の人ばかりだと思った。私は応召
 して昭和13、14年、中国の北、中、南部を転戦した。中国北部で中国
 人の捕虜をあぜ道に並んで腰かけさせ、後ろから日本兵が射殺するのを
 見たことがある。あれだな。あれをこんど日本がやられたと思った。ふ
 たたび、自分の郷里で、しかもこちらがやられる側になったな、と悲惨
 な思いをした」

  「私は大正14年徴集の現役兵だった。昭和13、14年の応召、16年にも
 応召して旧満州にも行き、四度目が沖縄の防衛隊員というわけだ。沖縄
 戦では、やはり6月に敵機の機銃掃射で妻と二人の娘を失った。やけっ
 ぱちになり、手榴弾三発を使って三人の息子ともども自決しようと思っ
 たことがある。父と友人にあやういところをとめられた」




 『沖縄・八十四日の戦い』
 12.両軍司令官の死 

 【日本兵による虐殺】

  米兵ばかりでなく、日本兵による住民虐殺もあった。1945年6月21日
 未明、糸満市真栄平では米軍の要撃で逃げ場を失った日本兵が住民の壕
 を奪い取ろうとして住民十余人を日本刀で虐殺したという。地元の農業
 TKさん、62歳。そのいとこの農業TMさん、46歳。

  TMさん方には二つの壕があった。ひとつの壕にはTMさんとその父
 TUさん、TKさんとその弟TYさんの四人がいた。もうひとつの壕
 にはTMさんの母TUさんと、その長女、次女、四女、孫たちがいた。

  TMさん「様子がおかしいので外へ出て見た。そうすると、母たちが
 いる壕に日本兵三人が手榴弾を投げ込んで、煙がもうもうと立ち1がっ
 ていた。壕から人を追い出すつもりだったのだろう。幸い、死者は出な
 かった」

  TKさん「静かになったので、壕の中の者は死んだ、と三人の日本兵
 は思ったらしい。三人は、私たちの壕へやって来た。『アメリカ兵がそ
 こまできている。おれたちを壕に入れろ』という。外にいた私たちも壕
 の中へ入ろうとすると、彼らは手榴弾を壕の中に投げ込んだ。ひたいに
 けがをしたので、ひっくりかえってバタバタして、そこにあったゴザを
 かぶって死んだふりをした」

  TMさん「戦争って、親も子もなくなるんだ。父親やだれもかも忘れ
 て逃げた。どこをどうして逃げたか全くおぼえがない」

  TKさん「おじの牛さんと弟の幸重は日本兵にひっぱられて、近所で
 すわらされ、日本刀で斬られた」

  TMさん「日本兵は壕を奪うのと、私たちが米軍の掃虜になるのを妨
 害するのと、両方をねらったのか。よくわからない」

  TK
さん「まったく日本兵のやることは意味がよくわからん。こっち
 はひどい目にあっているばかりだ」

  TMさん「三番目の姉とその二人の子は、隣りのMHさん(女性)方
 の壕にいた。日本兵の声に、MHさんのお母さんが返事をして顔を出す
 といきなり首を斬られた。首が姉のところに飛んできたらしい。姉は暗
 がりで何かコロコロしたものが、と思って外へ出たら、体に血のりを浴
 びていた。MHさんの弟と妹三人も日本兵に切り殺された」



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