※gooニュース 2006年8月10日(木) 06:09 asahi.comの記事を転載します。
靖国神社が59年4月にBC級戦犯を初めて合祀(ごうし)する直前、旧厚生省に合祀を公表しないよう要望していたことが、朝日新聞が入手した同省の内部文書でわかった。
その19年後のA級戦犯合祀(78年)もひそかに行われており、戦犯に対する多様な社会の評価を背景に、神社側が戦犯合祀を秘密裏に進めようとしてきた実態が浮かび上がった。
BC級戦犯は、連合国の戦争裁判で捕虜虐待など「通例の戦争犯罪」に問われた軍人や軍属。東京裁判(極東国際軍事裁判)で侵略戦争の計画・遂行などの「平和に対する罪」に問われた戦争指導者はA級戦犯という。
この文書は引揚援護局復員課史料班長名の59年4月4日付「事務連絡七号」。BC級戦犯合祀について、靖国神社の要望を受けて班長が課長に意見を述べた内容で、「取扱注意」の判が押されている。靖国神社は同月半ばの春の例大祭でBC級戦犯353人の合祀に踏み切ったとされる。
文書では、「(合祀が明らかになると)重大な誤解を生じ、将来の合祀にも支障を起こす恐れもあるという実情にある」とし、「靖国神社側は最も慎重な態度をとり、公表せずに世論とともに極めて自然に推移するよう希望している」と記述。
さらに、「戦争犯罪者まで合祀された」などの誤解に基づく問い合わせがあった場合に、靖国神社創建の趣旨である「国事に倒れた者」として合祀されたということをよく理解して対応してほしいという、班長自身の意見が述べられていた。
BC級戦犯をめぐっては、52年から衆参院で戦犯釈放を求める決議が度々出され、独立回復後の53年6月には日本弁護士連合会が「戦犯の放免勧告に関する意見書」を政府に提出。署名運動が全国に広がった。
遺族補償の面でも、53年には軍人恩給が復活、戦傷病者戦没者遺族等援護法が改正された。戦犯の刑死や獄死も「公務死」として、戦犯遺族にも遺族年金や弔慰金が支給されるようになった。後にA級戦犯を含む戦犯合祀が正当化される根拠の一つとされる。
その一方で、戦犯の遺族らでつくる「白菊会」が57年秋に神社側に合祀の申し入れをし、それをきっかけに賛否の議論が起こるなど戦犯合祀の評価は分かれていた。
その後、靖国神社は78年10月17日、当時の松平永芳宮司の決断でA級戦犯14人を「昭和殉難者」として合祀。翌79年4月の新聞や通信社の報道で合祀の事実が表面化した。同月末には「神社新報」がA級戦犯合祀に触れた記事の中で、BC級戦犯の合祀についても「講和条約の発効後、漸次合祀して、既に昭和45(70)年に合祀を終えている」と明らかにした。
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