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「江戸・東京の中のドイツ」 ヨーゼフ・クライナー

2012-12-12 | 読書

写真はポツダムのツェツィリンホーフ宮殿。ポツダム会議が開かれ、日本の戦後処理を決めたポツダム宣言の出されたところ。


著者は1996年の出版当時、ボン大学教授で、日本文化研究所長を兼務していた民俗学者。この本は第一次大戦後までのドイツと日本の交流史である。

近世の日本はドイツとは交流がなかった。この本ではヤン・ヨーステンのオランダは当時神聖ローマ帝国の領土だったからドイツ人というのはちょっと苦しいけど、ドイツ出身の大砲鋳造師が17世紀に、オランダ商館長と江戸へ来てデモンストレーションをしたとか、ワーヘルという人が、オランダ東インド会社を通じて有田の陶磁器をヨーロッパへ輸出したとか、ささやかな例ではあるが、オランダを仲立ちに、ドイツ人が日本へ来ることもあったことを知った。

逆は全然なかっただろうけど。

いちばんびっくりしたのは、シーボルトが持ち帰った柳亭種彦の「浮世形六枚屏風」が、出版から二十数年後にブッツマイヤーという人により、ウィーンでドイツ語に翻訳出版されたこと。本は前半ドイツ語、後半は元の本そっくりに木版による本文と挿絵が再現されたこと。

それはヨーロッパ人のエキゾチズムをいやがうえにも掻き立てたことだろう。

幕末に開国すると、多くの外国人が日本にやって来る。お雇い外国人は何となく、イギリス、アメリカと思いがちだけど、ドイツは19世紀には世界一科学技術の発展していた国で、アメリカ人も多くドイツに留学している。森鴎外、斉藤茂吉の例を出すまでもなく、日本人もまたしかり。

ドイツ人も日本の大学に雇用されることもあり、極東へとわざわざやっさ来る人は志はありながら本国で所を得ず、冒険心と進取の気性に富んだ人だった。

ドイツと日本は第一次世界大戦では敵同士となり、日本は被害の割にはアジアでのドイツの権益を受け継ぎ、漁夫の利を得た形になったけれど、星一のように苦しい時期のドイツの学術研究に私財を割いて援助した人もいたこともこの本では触れられている。

一つの国の枠にとらわれず、珍しいものを見て、面白い経験をする。外国へと向かう心の基本はそういう人間本来が持つ好奇心だと思う。文化にはいいも悪いも、優れているも劣っているもない。多様性があるだけ。相手を尊重し、自分も素直にさらけ出したら、世界中どこへ行こうと怖くない。国際交流の先達たちはそう今の私たちにかたりかけているようだ。

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