西行断章
2012-12-08 | 日記
写真は吉野水分神社の桜。2005年4月。西行もこの地を訪れたという。
今頃の季節だったと思う。新古今所収、西行の例の歌・・・
「寂しさに耐えなむ人のまたもあれな庵並べむ冬の山里」
私、西行らしからぬ甘えた歌。なぜ今さらに人が恋しい?
相手、私の手紙に返して、耐えて耐えてその先で、同じ孤独を抱える人を求めている。自分を見つめる深い眼差しがないと、そこまでへは行きつかない。
私、そうかもしれない。定型に流れない新しい歌なのかも。
もしかしたら少しずつ春のきざす季節、二月頃だったかもしれない。そんな手紙を、昔の王朝人のようにやり取りしながら、もう一月後には県庁のあるこの地方都市を離れることだけは知っていた。そんな少年少女に西行の歌はいささか刺激が強かったかもしれない。
時は流れに流れ、記憶は雲散霧消し、その時の思いだけがふとしたはずみに蘇る。思いは心の中にあるはずなのに、山や川や花や紅葉の中に宿っていて、自分の心がそれに感応した時にだけ、まるでその時その場所にいるような強い感情を呼び覚ます。
そしてつぎに襲ってくるのは深い後悔。もっと他に言い方はあったのではないかしら。もっと近寄る努力をしてもよかったのでは。が、思いは行き場をなくして決してあの時のあの人には届かない。
いや、あの時だってそんなにたくさんのことはできなかったと思う。そして私はここでこう生きることを、その時々で選択しながら結局は選んだのだから。
西行って迷いの多い人だったと思う。それを正直に吐露できるのも才能。心の奥をじっと覗いている自我は、近代以降の人かと思うほど強くて新しい。出家したはずなのに、全く隠遁生活しているわけではなく、いろんな人と歌を詠みかわす。
何なんでしょう?この身近さは。