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福島原発4号機

2013-04-15 | 日記

http://www.youtube.com/watch?v=_TJo0HLFR_s

使用済み核燃料が入ったプールの重さが100トン、それが地上30メートルの不安定な場所にある。補強も間に合わせ。

いつ地上に下ろせるか見通しも立っていない。台風、竜巻、新たな地震で不測の事態になれば、全世界を巻き込んだ核の被害になるという。

元駐スイス大使の言葉が正鵠を得ていると思う。この国ではまず隠れる、先に延ばす、だれも責任を取らない。東電と政府は能力だけではなく、意思も欠如している。

私的に解釈すると、要するに東電と政府は当事者能力もないし、それを改善する気もない。社員はいずれ定年退職になるし、政権も政治家も入れ替わる。自分がその立場にいるときだけの時間稼ぎをして、次の世代に問題を先送り。

メルトダウンして地中深く沈んだ核燃料、どうやって処理しますか?果たしてそれが可能でしょうか?先日はそのことを講師の先生に聞くつもりでした。

でも質問者があまりに多く、あててもらえなかった。残念。

質問:関東にいて、ガイガーカウンターを購入して放射線量を毎日測っていた。怖くて子供と一緒にこちらへ逃げてきたのに、こちらの方が線量が高い。不安。

答:関東は富士山の火山灰、火山灰は放射線は少ない。瀬戸内は花崗岩、自然の和放射線はこちらが多い。

質問:私に叔父がいて、その叔父が・・・(病気の話が続くのできちんと聞いてなかった)・・・肺血栓で急死した。近くで震災瓦礫を焼いていた。放射能の影響で死んだのではないか?

答:分かりませんが・・・それは直接関係はないと思います。

というような質問にも丁寧に答えておられました。

地中にある核燃料も怖いけど、空中に不安定な状態で取り残された使用済み核燃料、こっちの方がもっと怖い。プールが水漏れして崩壊熱を起こし、核物質が放出されれば地球的規模の汚染。

どうか最悪のシナリオだけは免れますように。私に出来るのは祈ることだけ。悪夢。だから原発なんてさっさと止めればよかったのに。せめてチェイノブイリのあとに。


お正月に帰らなかった三男一家(まだ二人)が帰省するとか。大変だあ~

「お母さん、すみません。Y輔さんがものすごく部屋を散らかして、片付けずに帰りますけど」と言うので帰った後二階に上がったら、ぬいぐるみが三個ほど畳の上に転がっていただけ?????

はて、我が家ではこんなのは散らかってるとは言わんのだが。そういう人なので、不潔だと思われないよう家中大掃除。まずは食器棚とカップボードふたつの食器をあっちゃこっちゃするうちに一日が終わった。おまけに使ったことないいただきものの高価なグラスをうっかり割ってしまった。落ち込む。

明日も引き続き片付け。どちらを向いても片付けを待つものが目に入る。今年の春はちょっと遊び過ぎてますね。

吉備路文学館庭で。4/13

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まだまだ楽しいマリーナホップ

2013-04-14 | 日記

広島初のアウトレットモール、できて10年くらい。久しぶりに行ってみました。

きょうは駐車場もいっぱい。マイアミ海岸のイメージで作ったそうで。

船もあります。

花もたくさん

ノリタケがあったのでびっくり。20%OFFなど、お買い得でした。

フリマもやってました。

観音マリーナ隣接。きょうはモーターバイクの宣伝販売をしています。

モーターバイクいろいろ。

モーターボートも販売中。

ヨットが係留中。

マリンスポーツの季節ももうすぐ。

本日のお買いもの。

カーテン端切れ300cm×50cmくらい 50円

小さながまぐち 本革製手作り 一つ 300円

ワキギ 全部で 100円

レモン大 40円 (広島県はレモン栽培が盛んです)

レモン小 無料(広島県のブースで60代女、マリンスポーツ興味なしとアンケート書いたらくれた)

近所のお店が出店。自家製みそ 500円 酢味噌はおまけ

以上フリマなどで


ジャム 570円

爪楊枝 ノリタケで60円

ついでにTシャツも買った。ぐるぐる渦潮にザッブーーーンとスパンコールの飛沫が飛び散って、海のイメージ。


 

アウトレットモールの店は入れ替わりが激しい。ノリタケと、あと台所用品のおしゃれな店を見つけたのが今日の収穫。これからも時々覗いてみよう。

いい一日でした。

備忘として、最近の孫娘。

年末に買ってもらった傘とブーツがお気に入り。昨日は息子たちのマンションの前まで迎えに行くと傘さしているので、急な雨かとびっくりした。新しい保育園も初めから全然泣かないそうで。わが息子たち、どの子も幼稚園にはなかなか慣れず、行かないと泣く子、逃げる子、暴れる子とそれぞれでした。その個性はいまだに引きずっています。

「**ちゃん、お腹に赤ちゃんいるんだよね」「うん、男の子~」だそうで。いったい、いつ生まれるんでしょうか笑。

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岡山へ

2013-04-13 | 日記

朝方の地震で起きたついでに、朝から岡山へ行くことにしました。新幹線は40分くらいで着きます。

新幹線のガード下を大阪方面に向かって15分ほど歩くと・・・

吉備路文学館です。バスを待つより、歩くのが確実。鬱金桜は五年ぶりくらいでしょうか。

本日、鬱金桜茶会開催中。

徒歩で南方交番バス停まで。そこから三野行バス、植物公園口下車。

市立半田山植物園

木陰のハナニラ。涼しそう。なんか横文字の名前もありそうだけど、知らない。

名前はどうであれ、花は花。

山の斜面の公園。岡山市街地の眺め良し。

吉備線、線路脇の菜の花

県立美術館横。八重桜、関山?

朝日川沿いのお宅で

禁酒会館?大正時代の建物だそうです。岡山駅からお城へ向かって歩いて行くと、最初に電車が曲がる方角にあります。駅から徒歩10分くらい。

あまりにいいお天気なので、本日はここでお弁当を食べる。


 

本当の目的はこちら

ソフトで人当たりのよさそうな演者の先生。

福島原発の現状とこれからの見通し。何も明るい兆しはありません。汚染水もやがては海に捨てるだろうとの予測。

子供たちに未来を遺すため、原発はいらないという方向へ政策変更すべき。原発のいらない国の在り方へと今こそ換えるべきだと。

たいそうわかりやすく、深く、どんな的外れの質問にも丁寧に答えておられました。

夜はみんなで食事に。パエリア。

 イチゴのアイスがおいしい。

 

 

 

 

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映画「東ベルリンから来た女」を見る

2013-04-11 | 日記

かつて東ベルリン側にあったブランデンブルク門。ベルリンの壁崩壊後、通れるようになった。2012年11月/於ベルリン

この日、近くには観光客相手のナチスの恰好した若者数名。カメラ向けるのは止めておきました。


東西ドイツ統一9年前、東ドイツの寒村に女医が左遷されてくる。彼女は西への移住を申請して当局ににらまれ、監視の着く身。

病院では、乏しい資材の中で精いっぱいに頑張る先輩男性医師がいる。彼女には(先に西へ脱出したのかな)恋人がいて、彼の手引きで西側へ脱出の準備をしている。

病院には強制労働所から患者さんが送られてくる。まだ子供の彼女は妊娠していた。彼女は国外で暮らす夢を語る。いよいよ脱出の日、逃げ出してきた若い患者さんを自分の代わりに西側へ逃がし、自分は東に留まって医師として生きることを決意する。

楽しい場面の全然ない、暗い映画だった。東ドイツは統一直前まで、秘密警察が暗躍し、自由に生きられない社会だったのかと、認識を新たにした。ベルリンの壁の崩壊まで、あと9年、ノンフィクションだけど、彼女と同僚の良心的な医師が無事解放の時まで生き延びられていますようにと、祈るような気持ちになった。

鷹野橋のサロンシネマで明日まで。ちょっと寂れた商店街の、小さな映画館。中はリニューアルして座席も楽、トイレもきれい、はじめてこの地へ来た時、みんなで受験のあと歩いた商店街。ホッと落ち着く。当時は今よりずっと賑やかだった。

面白おかしい映画ではないけれど、困難な時代、状況の中での人間の良心を描き、人間の強さ、素晴らしさをたたえた映画だと思った。私のようにせこい人間は、西側へ行って恋人と幸せに暮らす未来を、不幸な少女の将来へと変わってあげられるだろうか。たぶんできないと思う。

 

 

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江田島へ

2013-04-10 | 日記

本日は県人会の皆さんと江田島へ行きました。港から目的地、旧海軍兵学校あとまで、二時間を歩きます。

上り坂が続きます。後ろ、広島方面。

島の集落を抜けて

着きました。構内から古鷹山が見えます。構内、桜と松。

大正年間に建てられた講堂、花崗岩仕上げ。

明るい色調

内部の明るく軽快な仕上げ

玉座跡。テレビドラマの撮影などをしたらしい。

カーペットは踏まないように。

旧海軍兵学校。現在は海上自衛隊幹部候補生養成学校。明治時代の建物。煉瓦仕上げ。無駄のないデザイン。

戦前も軍事エリートの妖精・・・ではなくて養成学校。時代は変わっても学校の役割は変わっていない。

守衛さん二人

内部

教育参考館。内部は史料たくさん。林子平「開国兵談」(原本?)からはじまり、吉田松陰、橋本佐内、勝海舟などの墨跡、歴代海軍の偉い人たち・・・そしていきなり、特攻隊員などの遺書。一階は自衛隊になってからの卒業写真など。

ここでは時代は明治から一続き。自衛隊の施設なので、反戦思想はタブー。各地からの旅行者多し。

海軍兵学校は当時、日本で一番難しい学校だったとか。そこで学んだ頭のいい人の指揮でも勝てなかったんだから、なんで戦争に負けたのかもっと掘り下げてもいいんでは。失敗の中にこそたくさんの教訓が埋まっているものです。

そうすれば戦争とは勝つべきものではなく、してはいけないものと分かるのでは。惨憺たる負け戦の資料が全然ありません。ここへ来ると戦争のいい悪い以前に、日本は戦争に負けなかったみたい。どう見ても片手落ちですね。

セーラー服姿(と言っても全員男)、術化学校の生徒さんたちが、敬礼して二名ずつ入って行った。今年の新入生かも。

引き揚げられた戦艦武蔵の砲門。卒業後はこの先の港から、世界一週の航海に出て行くとか。


本日は23.000歩くらい歩きました。疲れました。帰りに友達に寄ってもらってワカメを渡しました。いい一日でした。

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楽しい絵付け

2013-04-09 | 日記

きょうは月に一度の絵付けの教室。今月から第二火曜日に変更になりました。いいお天気で、本日も車ではなく自転車とバスで。国道を走るバスはやがて団地へ入り、三番目のバス停。暮らしやすそうな、きれいなお宅の多い団地の一角に先生のアトリエはあります。おしゃれな教室で、好きなものを作って、お茶して、お弁当食べて、楽しくお喋りして、きょうも楽しみました。

今月の作品。すべて転写紙。菖蒲に見えるのはガラス転写紙で、赤紫が青になってちょうどといい色合いです。

ドレッシングやタレなどを入れる予定。網目の転写紙と、青いドットは丸く切り抜いた転写紙で。夏向き。


帰りはバスの便が悪く、スーパーで買い物して来たバスに慌てて乗ったら違う路線、また降りて乗り換えて時間がかかった。でものんびりゆっくり、昔の人はどこへ行くのもこの程度の不便は当たり前だったはず。のんびり行こう。

帰宅後、お茶する。もう桜餅もおしまい。次は柏餅の季節。

本日もいい一日でした。

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広島町歩き

2013-04-08 | 日記

暖かくなりました。午前中、振り込み、納税などの用事を片付け、午後から所用で外出。暖かいのでずっと歩いて行くことにしました。

 

正門跡。マンションの付近に第一食堂があった。思い出した、8日は入学式だった。平和公園にあった公会堂で全体の入学式。午後はこちらへ戻ってオリエンテーション各種。46年前は大雨だった。

向かい側の日赤。いつもこの道を通って通学。

原爆病院はこちらが入り口だった。

橋を渡って。昆布茶の会社と金物の卸屋は健在。橋も当時のまま。只今干潮。

マンションの左付近に四年間暮らしていた。

元安川と明治橋。川土手はきれいに整備。

鬱金桜うこんざくらがもう咲き始めていた。

私の中の三大桜の一つ。黄、ベージュ、グレー、渋いピンクの色の組み合わせが時間とともに変わっていくのが見どころ。

他の二つは広島江波山桜と御衣黄です。ギョイコウもそろそろ咲き始めるかも。

よく買い物した商店街。呉服屋、洋服屋が多かったが、今は食べ物屋さんが増えた。

当時は二階もあったけど、最近行ってないので不明。モーニングサービス発祥の店らしい。

銀行横で。生きているような少女の顔。見に行くときはやはり着古した木綿の着物?というのは持ってない私。

電気自動車

市役所前。被爆直後の写真をモニュメントとして設置しています。

あるお店の前で。達筆。

暖かい日でけっこうでした。夕方、お姑様に今年度のごみ収集のカレンダーなどを届けてから、少し話する。

 

 

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「日本の軍隊」-兵士たちの近代史- 吉田裕

2013-04-08 | 読書

徳佐八幡宮の境内には産直市が開かれていました。特産の葉わさびを一把購入、湯通しして軽くもみ、出汁醤油につけていただきました。ピリッとして、春の味覚。


明治初めに創設された日本の軍隊が、太平洋戦争の敗戦で消滅するまでをたどった、近代日本軍の通史。

明治初め、洋食、洋服、靴、時計といったものが軍隊を通じて広まっていったこと。過酷な労働の農民層には三度の食事と決まった時間の睡眠が保障される軍隊生活はむしろ快適だったことから始まり、農家の二、三男など、上級学校へ行けず、家を継げないものが軍隊の中で出世したいと願う仕組み、とはいえ、士官は上層階級の学歴エリートにしか道が開かれてないことなど分かりやすくまとめてある。

第一次世界大戦のあと日本軍は装備の近代化が遅れ、大陸で、太平洋地域で戦線が拡大するにしたがって次第にその矛盾が明らかになり破滅へと突き進んでいく。1941年以後の戦死者230万のうち半数は広義の餓死者、そのほかに海没と特攻死・・・日本の、いや世界の歴史においても短い期間に夥しい数の青年が、国を離れ、親兄弟にみとられることなく非業の死を遂げるということはなかったはず。狂気と破滅の時代。乏しい資源を精神力でカバーするしかなかった日本。

戦後長い間たち、ともすれば戦争体験も風化し、体験者もほとんどいなくなったけれど、このことは何度でも思い返さなければならないと思う。

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ちょっと思ったこと

2013-04-06 | 日記

旧広島地方気象台。 昭和10年代に建てられた表現派の建物。気象台らしい軽快なデザイン。レトロでモダン。市中心部に向かった窓ガラスは、原爆の爆風で破損、ガラスの破片が今も室内の壁に残っています。


昨日は織りの教室。布なんて、織物なんてわざわざこの私が織らなくても、とても安い値段で世間にはたくさんある。じゃなんで行ってるか?それは手を動かしながら口はもっと動かして、楽しいお喋りが途切れることがないから。それと、畳の部屋にゆったりと座ってお弁当食べておやつ食べて、とても寛ぐから。

でも時として、そのお喋りでストレスがたまる。それは話が政治や社会のことに及ぶとき。人の考え、立場はそれぞれ。意見を交換して共通認識を持つ場ではないので、できたらそんな話は避けてもらいたいもんだ。言いたいことがあってもよそで言ってほしい。

昨日は例の「光母子殺人事件」の犯人なんか弁護士が弁護しなくていい」という過激な意見。もちろんあの事件は悲惨で許し難いし、遺族の処罰感情もとても強かった。死刑判決が出たと思うけど、それで誰も幸せにならない救いようのない事件だった。

でも「あんな事件の弁護して」と担当の弁護士を非難するのは裁判制度の基本を理解していない、稚拙な考えだと思う。起きてしまった犯罪を法律で正しく裁くのに、被告の立場を代弁する弁護人は必要。裁判官も人間。人間は間違いを犯す。双方の意見を聞き、その間違いをなるだけ少なくし、被告の人権を守るためと私は理解している。

過去にもいろいろな悲惨な事件があった。その度にマスコミが扇情的な報道をして、世論を形成してきた。それに最近はネットでさらに過激になりやすい。

落ち着いて冷静に事件の全容を明かすため、今の裁判制度は全能ではないかもしれないが、桜吹雪のお白州の時代のような、検察と裁判が合体し、弁護人がいない時代に戻れとでも言うのだろうか。あり得ないことである。

冤罪から無罪を勝ち取った話を聞くたび、犯罪の捜査とその後の裁判は冷静にいろんな見方が必要だとつくづく思う。いつ自分がその立場になるかわからない。弁護人が要らないなんて決して言えない。

というようなことをお稽古ごとの教室で議論しますか?普通。しませんよね。それが成熟した大人というもの。

「目には目をって、ほら昔の法律、あれは正しいと思う」との意見。ゾッとした。古代の話を今に当てはめるなんて、野蛮過ぎる。

ということで、昨日はとても後味が悪かったのでした。

 

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「ばかもの」 絲山秋子

2013-04-06 | 読書

山口市徳佐町では野生のクレソンにもう花がついていました。3/31


人を愛するにはいろいろな道筋がある。心を裸にして相手に向き合うとき、嫌でも個性が露わになる。たいていの人はそれを深くは気に留めず、愛することもまたすぐに日常になってしまう。。。。と思えるものは幸せ。

ここには若い時の覚悟が定まらないままの付き合いから別れた男女が、一方はアルコール依存症から立ち直りつつある三十男として、一方は事故で障がいをもった年上のきっぷのいい女として再会し、お互いに寄り添いながら再生していく話。

苦い人生経験のあとに、自分で幸せをつかみ取る前向きな姿がいいなと思った。アルコール依存症で、記憶をなくすほど飲んだり、酔って同居の女性に暴力をふるったり、無断欠勤が重なって会社から解雇されたりと、「俺」は全くどうしょうもない男で、途中までは読んでてムカムカしたけど、反省して立ち直りつつあるので読者として許すことにした。

これが男性作家の作品なら、まだ甘えていると思うけど、女性作家が書いたのは手柄だと思った。筋も分かりやすく辿りやすい。2011年の正月映画として公開されたそうですが、知りませんでした。昔はよく映画をテレビでやってたけど、これは過激な場面も多いのでそれでなくても無理かも。こちらもうまく書けている。みんなやってることだけど、書くとなると話は別。絲山さん、すごい、なんでも書けるんですね。プロだから当たり前かもしれないけど。

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春の断想

2013-04-05 | 日記

廿日市市、洞雲寺とううんじで

刻まれた名前も消え果た古い墓石に、今年の春の陽が当たります。


きょうは二か月ぶりくらいで織りの教室に車で行った。年度初めの5日、金曜日、国道バイパスが上がる前から大渋滞、脱出して地道を行くけどこちらものろのろと進まず、結局一時間以上かかってしまった。

先日宮島に店を出した友人は、ご主人が転勤で、明日あさってが引っ越し、きょうは休んでいた。軸足は広島に置いておくと言っていたけど、どうなるのだろう。一人減って寂しい。

きょうはウールのショール二枚が完成。織り機から外して持って帰る。慌てて外していて、織り機の突起したところへ思い切り膝をぶつけた。イテテッ。今週は雨だった火曜日を除いて毎日出歩いていて、明日は久しぶりに家にいるつもり。

健康で好きなことができる。それだけでも感謝しなければ。子供たちのこともいろいろ心配だけど、仕事して元気にいてくれればあとは本人次第。頼ってきたら力になってやるだけでいいと思っている。

今朝久しぶりに車を運転して、元安川土手の桜と楠、川と山と空、春の美しい色に感動した。18歳で初めてこの地に来て、この付近に住んだ。川の水量の多いことに驚き、それからいろいろなことがあったけど、春だけは忘れずにめぐってくる。

学校で出会ったたくさんの人はまた全国各地へ散り散りになったけれど、この季節になると一人暮らしを始めたころの緊張感と高揚した気分を思い出し、毎日の生活に流されるおばさんもほんの少しだけ前向きに何かをやろうと思う。

さしあたって何かな。おやつをやめるではなく、控えるとか、庭の掃除を真面目にするとか、そんなことしか思い浮かばない。

波乱のない日々があと少しは続きますようにと、春は見えない何かに向かって祈るような気分で。

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廿日市町歩き

2013-04-04 | 日記

広島市に隣接する廿日市は、旧西国街道沿いに栄え、製材業、牡蠣の養殖などが盛んですが、近年は広島市のベッドタウンとして人口が増えています。

きようははつかいち観光協会主催の「廿日市の桜と桜尾城址と蔵元見学」という催しに参加しました。

JR廿日市を9:00出発、佐方川土手の桜を見ながら佐方八幡神社へ向かいます。

境内に堀田仁助の寄進した石灯籠あり。仁助は廿日市市内にあった津和野藩船屋敷で生まれ、幕府天文方として蝦夷地測量。後に弟子の伊能忠敬を後任に推挙したそうです。伊能忠敬の前に測量した人がいたなんて…初めて知りました。一つ賢くなりました。

続いて洞雲寺とううんじへ向かいます。途中は最近開発された住宅街。庭木も今風のがいろいろ。楽しめました。

桜と見まごう、小さな花をたくさんつけたツバキ。

洞雲寺(とううんじ)

曹洞宗。厳島神社神主、藤原教親のりちか・宗親むねちかが1487年に周防から僧侶を招いて開山。

境内にはこの地を支配した陶すえ氏、桂氏、毛利氏(元就四男元清夫妻)などの墓もある古刹。県重文、市重文の宝物、文書などもあり、墓所は史跡に指定されています。

で、ここで沸々と沸き起こる疑問。神主の菩提寺って・・・神主さんも亡くなれば仏式で葬られたということですよね。平安時代初めころから天地垂迹説という仏教の日本的解釈とでもいうか、仏様の教えを分かりやすく説くために神様がつかわされたという考えが始まりますが、それ以来、日本では仏教と神道は分かちがたく結びついていました。

神主家の菩提寺を奇異に感じるのは、私たちの宗教的感性が、明治以降の神仏分離、国家神道の宗教政策にいまだ影響を受けているからで、それ以前の人たちは神と仏の垣根なんかほとんどなかったはず。あまり深く考えず、おおらかだったのでしょう。

明治以降、神道の地位が上がり、政治の道具としても使われてきたので、私自身は神社はちょいと苦手。これは私の実家が、神社には一切足を向けなかったという宗教的習慣にもよります。

お寺へ行くと何故かホッとするけど、神社へ行くと早く立ち去りたくなる。御利益も求めない。宗教的な身振りは子供の頃に擦り込まれたまま。宗教に過度に入れ揚げない。たぶんこのまま行くと思う。

洞雲寺

廿日市天満宮。WBCの監督、山本浩二氏はこの石段でトレーニングしたそうです。

本堂

街道沿いの面影の残る一角。

廿日市招魂社。奥の扉は明治天皇がこの地で休んだ時に使った茶器を保管している建造物。鍵がなくて今は開かないそうです。あえて開けないのが天皇制の空間。

津和野藩蔵屋敷跡に残る小さな祠。津和野藩は瀬戸内側のこの地に船屋敷を置き、藩の専売品をここから上方へ運んだそうです。

桜尾城址跡の桂公園で昼食。名前はこの地を治めた桂氏ではなく、明治の元老、桂太郎からきているとのこと。桂太郎がこの地を買い上げ、公園として整備させたんだとか。きょうはもう最後のお花見でしょうか。

続いてこちらへ

次の日曜日はイベントあり。

焼酎、清酒、その他お酒いろいろを製造しているそうです。

そのあと住吉神社近くの桜の名所、住吉の土手へ。

片道約600メートルの桜のトンネル。35年くらい前に整備されたそうです。

桜の土手。花の命は短いけれど、ソメイヨシノの木の命も短いそうで。エドヒガン、ヤマザクラなどが何百年、時には千年以上生きるのに比べると50年平均なんて短すぎ。夢幻のごとし。日本全国一本の木のクローン。一斉に咲き一斉に散る。軍歌に歌われる桜はこの花と知って以来、私はソメイヨシノには酔えません。すみません。


 

本日のお土産

焼酎、清酒、梅酒などなど試飲して、こちらは無料のお土産。飲まない人からもう一セット貰ったけど、チャリンコで広島駅から帰る途中、友達の家に寄って渡してきた。友人はずっと病気、代わりに娘さんと話した。早く元気になってほしい。

本日のお買い上げ二本。梅酒はちょっと飲みました。焼酎入りコーヒーミルクは、別々に買って自分で混ぜればいいことに気が付いた。でも試飲の時は疲れていて美味しく、つい買ってしまった。


 

楽しい一日でした。1976年4月から 1978年3月までの二年間、廿日市に住んでいました。当時は店もほとんどなく、買い物が不便で、不満がいっぱいでしたが、今日歩いてみて歴史的な謂れのあるものが多いことに気が付きました。広島のように町が焼けなかったのも幸いでした。

また市民ボランティアの方たちが皆さんとても感じよく、分かりやすい説明でとても親切、楽しく見学できました。四月、五月はイベント目白押し、また何かに参加したいです。

それにしても廿日市駅裏の変わり様には驚愕。田んぼ、あぜ道、家ちらほらがマンション、住宅街、まっすぐな広い道へと変貌。それは20代の若き私が、この歳に馬齢を重ねる年月でもありました。

                                                                        -----完----

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広島江波山桜

2013-04-03 | 日記

ヒロシマエバヤマザクラは八重の山桜で、広島市の天然記念物に指定されています。広島デルタ南端、江波山の山頂にあります。

推定樹齢は160年。根元近くで二本に分かれて大きく枝を伸ばしています。

空を覆う花、花、花、、、

花また花のめでたさ

枝の先のそのまた先まで

毬状に花をつけて

春が来たことを知らせます

優美かつ力強く、溢れる生命力

今年つけられた説明版

こちらは指定当時のもの。


 

旧広島気象台敷地に、挿し木で増やした木があります。

こちらは花が近くで見えます。八重の山桜。

満開を少し過ぎて葉が成長しています。

人の寿命よりずっと長い桜の木、これからも春になると花をつけることでしょう。

人は出会い、また別れ、時間は流れに流れて、ささやかな記憶は雲散霧消してしまっても、まだ花は咲き続ける。せめて花に言葉を託しておけば、思いは花と共に永遠に生き続けるように錯覚する。そうやって人は花を愛でる言葉を遺し、死ぬなら花の下でと願ってきた。

花を見ながらこの一年のこと、これからの一年のことを一人で考えてみた。ちょっとグッとなった。


 と、柄にもなく文学少女したおばさんは続いてこちらへ参ります。

ハイ、しっかり拝んできました。向こうは本川(旧太田川)。この付近は柳田邦夫「空白の天気図」に詳しく書かれています。

南無観世音大菩薩。

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「いまも、君を想う」 川本三郎

2013-04-02 | 読書

評論家、川本三郎氏は若い頃、朝日ジャーナルの記者をしていて、過激派の活動家に取材範囲を超えて関わり、逮捕され有罪判決を受ける。懲戒免職のあと、記者時代に知り合った七歳年下の女性と結婚する。

2008年、妻が食道がんで他界するまでの35年間をエッセイ風に回顧したもの。随所にその妻への愛情と哀惜がちりばめられている。こういう作品はともすると女々しくなりがちだけど、ぐっとこらえて、今はいない妻がどんな女性だったか、丁寧に書いている。美人で、若くて、賢くて、センスが良くて、料理好きで、ユーモアがあって、お金の管理もきちんとできて、海外旅行の手配も一人でこなして、本当に素晴らしい方だったのだろう。

二人には子供がいなかったという。二人で食事に出かけ、映画やコンサートや旅行に出かけた二人、きっととても仲が良かったのだろう。悲しい話だけど、読んでいて、こんなに想われて幸せな人だったのだなあと思った。

我が夫、私のことこんなによく記憶していてくれるとも思わない。私も、夫のことこんなに礼賛できるだろうか。お互い配偶者がいて当たり前の暮らし、それが永遠に続くとは思ってないけど、近いうちになくなるとも思っていないから、平常心でいられるのだろう。

寒いね、暑いね、あの人がどうかしたらしいよ、という何でもない会話、その中に幸せがあったと川本氏は言う。そうなんでしょうね。先日読んだ「未亡人読本」の巻末に、同じころに配偶者を亡くした者同士で対談していた。男の方が家事の負担が一気に押し寄せてきて大変だなと思った。個人差もあるけれど、女の方が立ち直るのが早いのかなと思った。

男の方が大なり小なり抑圧的。それは男が悪いのではなく、制度的なもの。その重しが取れて、初めて自由になったという実感を持てる人もいるのでは?

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「未亡人読本 いつか来る日のために」 河治和香 

2013-04-02 | 読書


世の中には結婚している人が数えきれないほどいるし、ということは同時に亡くならない限り(近所の方で、事故ではなくて同じ日に亡くなられたご夫婦がおられた。奥様の病院へ行くために玄関で靴を履いた後で急死されたとか。前世からよほどの深い縁でむすばれていたのだろう。合掌)、どちらかが残されることになる。

未亡人、未だ亡ぜざる人・・・ほかに何かいい言葉はないものだろうか。

それはさておき、未亡人はものすごく多いし、その体験もあまりに有り触れているのでわざわざ本にするほどのことではないのかもしれないが、いざその立場になると、戸惑い分からないことだらけ。それを一冊にまとめた実用書でもあり、配偶者の死後、どのように生きるべきかという指針としても読んだ。

人は必ず死ぬ。どちらかが残される。その時の諸手続き、心の持ち方、参考になった。映画関係の仕事をしていた夫との間に子供がいないので、きょうだいにも相続権がある。結果としてはすんなりといったけれど、義母の前の結婚の時に生まれた子供(夫からは兄)を探し当て、事情を話して相続放棄の手続きをしてもらう辺りはスリリング。うまくいってよかった。

死後の手続きの煩雑さに音を上げながらも、夫が生前親しくしていた人たちから励まされ、力を借りて何とかこなしていく。悲しみは癒えないけれど、誰にでもやってくる不運をどう受け止め、咀嚼し、人生に生かしていくかで、幸運のチャンスも見えてくると著者は言っている。経験した人の言葉だけに重みがある。

そして巻末では、不安も、孤独も、年を取っていくゆくということも・・・逃れられないものであるなら、それぞれのいい面を探りながら、うまく付き合っていく。と結論がある。なんか私自身が励まされた気がする。いつかこの本が必要になった時、読み返してみよう。


絲山秋子氏の公式ブログによると、近所の中学校へ読書体験について話に行かれたとか。読書とは心の筋肉をつけること。その筋力があることで、広く物事が理解できて、柔軟に対応できる・・・というようなことを話されたとか。

心の筋肉、いい言葉だと思った。人の実際の見聞も大切だけれど、読書の体験はそれをもっと大きく広げてくれると思う。


昨日、電停で電車待っていたら、全然知らないおばさんが「着物がスっとるよ」と言いながらいきなり寄ってきた。

「えっ??」と戸惑う私。どうも着物の着丈が長いと言いたいらしい。わーーーん、わざと長めに着ているのに。常々、年配女性の着物、なんであんなに短く着るのかと思う私。歩くと足袋の上の生足が3センチくらい見えてる人がいて、ぞうきん掛けしていた昔の女中(←お手伝いさんに言い換え)じゃあるまいに。そういう人はたいていものすごくパーマの当たった短い髪。

紬は普段着なので短めにというのはtheory、しかし今はどんな種類の着物でも(浴衣は除く)非日常のものと私は思う。走ってもいいくらいに短く着るのはおかしいと思う。でもそんなこと、見ず知らずの人にわざわざ言いますか。言いませんよね。

あちらさんはアドバイスのつもりかもしれないけれど、着物のことになると途端に赤の他人につい口出ししたいのはなぜだろうか。それに地面を擦るほど長くは着てないのに。

要するに私が着物着ているのが気に入らないと。気に入らないから、何かあらを探して指摘して優位に立ちたいと。そう思うことにした。そこまで言ってしまうと、自分がものすごく性格悪い女になったようで落ち込む。

着物の定義その一、それはある種の人の感情を刺激する。その感情の攻撃に耐えるのも、着物を着る上では必要な覚悟。ということかな。こうして書いて気持ちに折り合いをつけて、それも手間のうち?

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