初心者の老人です

75才になって初めてVISTAを始めました。

大映通り

2011年09月10日 22時54分51秒 | Weblog


京福電鉄「太泰(うずまさ)駅と

次の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」で

三条通りに並行して,賑やかな繁華街があります



これを「大映通り商店街」と呼ばれています



京都市右京区多藪町△△がここいらの住所です

昔は,この辺りに竹藪が多かったのかも知れません



大映通り商店街を挟んで東映と大映、

松竹と三つの撮影所が集まっています



時間待ちの映画スタッフや出番待ちで時代劇の

扮装の俳優さんもぶらぶらしていたのでしょう



二つあった松竹撮影所は下鴨の下加茂撮影所を縮小して

帷子の辻に主力を集めました



下加茂撮影所は道路を挟んで、東側(下鴨神社側)と

西側(加茂川側)とステージが二つに分かれていました



まず西側のスタジオを閉鎖しました



西側のスタジオを更地にして、そのあとに

ボーリング場を作りました



毎週、二本立て映画興行で第二東映まで作って

頑張って製作していました



この第二東映を縮小します

広いオープンセットの敷地に

ボーリング場を作りました









国際映画祭グランプリ

2011年09月09日 23時17分29秒 | Weblog


この映画「羅生門」が

ヴェネチィア国際映画祭グランプリを

受賞します




この映画を製作した大映撮影所は

以後,外国の映画祭を意識した

時代劇制作に路線を変えます



大映撮影所は、京福電鉄「太泰(うずまさ)」で降りて

太泰小学校前の田圃の道を歩いていきます



「太泰」駅を嵐山方向に向かって右側に行くと

広隆寺に出ます。その奥の方が東映撮影所でした



この「太泰」駅で大映と東映のカツドウヤ(映画人)が

降ります。



次の「帷子ノ辻(かたびらのつじ)」駅に

松竹撮影所がありました



当時の京福電車は、ラッシュアワーの

混雑する方向と反対の嵐山方面に向かって

三つの撮影所のカツドウヤ(映画人)を

運んでいました



朝のラッシュアワーでびっくりするほど

可愛らしい女優さんが

乗っていることがありました



どうしてこんな可愛らしい子が

売れないのかと思うほどの

大部屋の女優さんたちでした






映画「羅生門」

2011年09月08日 23時04分08秒 | Weblog


太泰(うずまさ)の大映撮影所内に

崩れかけた楼門が建っていました

黒澤明監督の「羅生門」のオープンセットです



大映京都撮影所は、三益愛子の母もの映画や

娯楽映画を主に制作していました

この黒澤明監督の「羅生門」が

どうして大映京都で制作される

ことになったのか知りませんが



黒澤明監督は、東宝以外でも仕事をしています



松竹で、三船敏郎、山口淑子主演で

「醜聞=スキャンダル」のタイトルで

現代劇を作っています



大映でも三船敏郎、三条美紀主演で

「静かなる決闘」をこれも現代劇を制作していました



当時の映画界では映画製作が始まると

すでに、映画館での封切日が決まっているのが普通でした



「羅生門」の黒澤監督はロケーションで

雲の姿が気に入らないと

撮影中止になることはしばしばでした

従って、この映画がいつ完成して

いつ映画館で封切られるのか未定でした

これには会社の製作部は頭をかかえてしまいました



この映画のスタッフにストーリーを聞くとさっぱりわからない

こんなことは初めてだと首をかしげています

それに、この映画がいつ完成するのかわかりませんでした




この謎の映画が完成して、封切られました

… … …

誰かに勧められて外国の映画祭に出品することになります




太泰界隈

2011年09月07日 23時22分58秒 | Weblog


京都市左京区下鴨の

松竹下加茂撮影所は

フィルム倉庫の失火が直接の原因では

ないでしょうが

京都市右京区の太泰(うずまさ)に

松竹の主力が移ります



京福電鉄、太秦駅から

次の帷子ノ辻駅(かたびらのつじ)の

間に、東映、松竹、大映と三社の撮影所がありました



東映は、東千代之介、中村錦之助、

大川橋蔵、千原しのぶ、丘さとみ

と若い人に人気の俳優さんが大勢います



東映撮影所の前はいつも若いファンが

大勢集まっていました



「映画は大映」

(大映映画のキャッチフレーズ)

「火事は松竹」

(下加茂撮影所の失火)

「夜間は東映」

(東映は製作本数が多いので、

夜間撮影と夜間残業が多かった)



各撮影所の口の悪いスタッフは、

はやしていました



夕方から夜にかけて太泰広隆寺裏の

東映のオープンセットは夜間撮影のライトで

こうこうと輝いていました。



東映の給与体系は、スタッフ本人には、本給を渡し

残業代はスタッフの奥さんに渡して、

奥さんから残業への理解を得ていたとの

噂を聞いたことがあります。

本当かどうか知りません…







松竹下加茂撮影所

2011年09月06日 22時51分33秒 | Weblog


京都市左京区に朱塗りの楼門回廊と

境内の白砂が美しい下鴨神社があります

緑の多い境内は糺の森(ただすのもり)と呼ばれています

糺の森の小道を西に歩いて銭湯を過ぎたあたりで

電柱の柱上トランスが

「ブーン」とうなっているところに出ます

松竹下加茂(しもかも)撮影所です



関東大震災で東京の撮影所が被災します

京都へ活動写真の主力が移ってきます

松竹下加茂撮影所はそのひとつです



カツドウヤさんは、撮影所の近所に住んでいて

撮影所に歩いて通っていました

当時のカツドウヤ(映画人)はみんな、

撮影所の近所に住んでいました



スタッフの奥さんらが道で会うと

挨拶をかわしています



あの人は誰それさん(スタッフ)の奥さんだとか

撮影所の近所は、うわさ話で大変です

和やかではあるけれどかしましいところでした



戦後、下加茂撮影所で映画製作が復活します

しばらくして撮影所内のフィルム倉庫から出火しました



私は登校の途中、鴨大橋(出町)でこの火事を見ました

フィルム缶が煙をはきながら空に昇って

「ドカーン」「ドカーン」と爆発していました



この火事で貴重な多くの

ネガフィルムを焼失したそうです



この火事がきっかけになって

それまで可燃性(爆発的な)の

映画フィルムを見直して

不燃性のフィルムに変わっていきます










トーキー映画

2011年09月05日 21時12分19秒 | Weblog


普通写真から活動写真に

商売替えしたカツドウヤさんは、

キャメラの横についている

クランク(ハンドル)を右手で回す

ことから始まりました



しばらくして、キャメラのクランクに

道のホースのようなフレキシブル

ケーブルとジョイントがつきます

ジョイントの端に、ハンドル(クランク)が

移ってきました

そのハンドルをこんどはキャメラ助手さんが

一定の速度で回すことになります



キャメラマンの右手はクランクから開放されます

キャメラは三脚に固定されていましたが

キャメラと三脚の間に雲台が取り付けられます

キャメラは雲台を中心に上下のチルト、左右に振る

パンが出来るようになります



活動写真はキャメラを振ることで新しい

表現を得ることになります



活動写真は音声のないサイレント映画でした

活動写真は毎秒16駒で撮影されていました



アメリカで活動写真に音声がつきます

トーキー映画です

俳優さんの台詞が画面から聞こえます

伴奏の音楽も聞こえてきました



トーキー映画は毎秒24駒に

スピードアップしました



活動写真ではクランクを

キャメラ助手さんが回していましたが

トーキー映画になって

蓄電池またはAC電源でキャメラを

駆動するようになりました

… … …

キャメラからクランクは無くなりました.









カツドウヤさん

2011年09月04日 21時35分49秒 | Weblog


例のカツドウヤさん(映画人)は

写真館で修業していました



その後、百貨店の写真部で働くようになります



街でバッタリ旧友に会いました

「いまは、活動写真会社(無声映画のこと)で

働いている…」

「給料が良い…」

話を聞いたカツドウヤさんは

普通写真から活動写真に商売替えすることを

決心します



当時、始まったばかりの活動写真の

撮影キャメラは国産はなく舶来の輸入品でした




撮影キャメラは電動ではなく手動です

キャメラの横にフィルムを送る

ハンドル(クランク)がついています



撮影キャメラマンはファインダーを覗きながら

キャメラのハンドル(クランク)を右手で

早くも遅くもなく一定のスピードで回していました



映画(活動写真)を写すことはキャメラのクランクを

回すことから始まりました



芸能ニュースで××監督が、

○○男優と△△女優さんで「映画□□」を×月×日から

クランクインします…などコメントしています



大昔の言葉がいまだに使われているのですね








映画Vsテレビ

2011年09月03日 21時23分01秒 | Weblog


邦画界の全盛時代、毎週新しい作品(映画)を

発表していました。

東映は毎週2本の映画を封切るために

東映撮影所の隣に第二東映を建てました



世間は動画に飢えていたのでしょうか

動画は電車、バスに乗って

映画館に行かなくては見られませんでした



新しくテレビが現れました

テレビは居間で動画が見られます

動画はテレビで

癒されるようになったのでしょうか

映画の観客はテレビに移っていきました



映画はカラー。テレビは白黒で、

また、ワイド画面は映画、テレビは小さな画面と

差をつけました



ハリウッドと同じように日本の映画も

少しずつ斜陽化していきました



例のカツドウヤさん(映画人)は



「映画は私ら一代で終わったなあ…」

しんみりつぶやきました






続・シネマスコープ

2011年09月02日 22時16分21秒 | Weblog


街の映画館では、

邦画・洋画とも

シネマスコープが流行っていました

画面が広いだけでなく

洋画では音声に工夫がされていました



シネマスコープではサウンドトラックが

光学式から磁気方式になりました.

現在テレビのサラウンドシステムに似ていました

前後左右から音が飛び込んできました



例えば、鉄道線路を広い画面で写っています。

画面を見ていると観客の背後から

汽笛と列車の音が聞こえてきます

そして、轟音とともに画面に列車が

フレームインしてきます



横長の大画面に大勢の登場人物

四方八方からのステレオサウンドで

テレビではマネの出来ない方向に進んでいきます



映画より人気が出てきた

テレビはまだ白黒でした

映画はすべてカラーになりました



小さなテレビ画面より大きい画面でと

シネマスコープになりました




例のカツドウヤさん(活動屋=映画人)は

このシネマスコープの映画界を

「映画は見せ物になりさがったか…」

と嘆いていました.




ビスタビジョン

2011年09月01日 22時41分46秒 | Weblog


米国の色彩映画は特殊なテクニカラーキャメラで

作られていましたが

日本では白黒用のキャメラに

イーストマンカラーを使って

色彩映画が作られていました





テレビの対抗策としてワイド画面の

シネマスコープ映画が各撮影所で

作られました



シネマスコープは、白黒用キャメラに

イーストマンカラーを装填して

アナモフィックレンズを装着して

画面の横方向を圧縮して撮影します

>

完成したシネマスコープ映画を映画館では

アナモフィックレンズで画面を横方向を伸ばして

横長の広い画面にして映写します



映画館で見るシネマスコープ映画は

横に広い画面で迫力がありました



小さな画面をレンズで圧縮して

再び広げるので

画面の鮮鋭度が劣っていました



映画・忠臣蔵の松の廊下で

浅野内匠頭と吉良上野介の場面で

まっすぐの廊下が歪曲して写っていました






画面(標準で14吋)が狭いテレビジョンに

映画はカラーで広い画面で対抗する戦略でした