高名な科学者の中でも宗教的な信仰にあつい人は多く、論理的に考えるサイエンティストとしての態度と信仰心に矛盾はないのかという研究が発表されました。
イギリスのコヴェントリー大学などの研究チームは、スペインの有名な巡礼の地を訪れた巡礼者たちに協力してもらい調査と実験を行いました。最初の調査では参加者の信仰心の強さや、巡礼に費やす日数などを報告してもらい、どれくらい直感的意思決定を行っているかを計測する認知テストを受けてもらいました。
続く実験では、参加者は脳の特定の箇所を弱電流で刺激できる機器を頭に装着して算数のパズルの問題を解きました。電流は2種類流されて、ひとつは直感的意思決定を高めるもので、もう一つは認知を抑制して論理的思考を促すもでした。
各種のデータを分析した結果、超常現象を信じる信仰の強さと直感的意思決定には因果関係がないことが分かりました。つまり信仰心が強くても科学的な分析的思考ができることになるようです。
この辺りはちょっと意味の分からないところがあるのですが、心理学的実験というのはこんなものかもしれません。
この研究結果は、信仰心は人間にとって自然発生的なものではなく、社会文化的なものであることを示唆しているようです。信仰心が強いからといって、神の御心を直感的にくみ取る能力に優れるわけではないということになります。
次が「神」の代わりに「宇宙人」はどうなのかも調べています。私は神と宇宙人は同列に取り扱うようなものではないような気がしていますが、アメリカノースダコダ州立大学のチームが調べています。
最初の実験では、人生の意味を探し求める欲求が高い人ほど、宇宙人の存在を信じる傾向が出てきました。2つ目の実験では、自らを不可知論者(神が存在するかどうかは知り得ないという立場)あるいは無神論者であると定義している者は、極めて高い確率で宇宙人の存在を信じていることが分かりました。
研究チームは「宇宙人の存在を信じることは存在論的な機能を果たし、人生の意味をより感じさせてくれます。宇宙人存在の信念は、一部の人々が故意に拒否した伝統的な宗教的協議に頼ることなく、宗教に似た機能を提供するものと考えられます」と評論しています。
結局伝統的な宗教への信仰心も宇宙人の実在を信じることも、人生の意味を追求する気持ちの表れであることが指摘されることになったとしています。
この文章は科学者と信仰心という問題を解いていることにはなりませんし、あまりすっきりした結論になっていませんが、哲学的な論点からは一つの提起になっているのかもしれません。
イギリスのコヴェントリー大学などの研究チームは、スペインの有名な巡礼の地を訪れた巡礼者たちに協力してもらい調査と実験を行いました。最初の調査では参加者の信仰心の強さや、巡礼に費やす日数などを報告してもらい、どれくらい直感的意思決定を行っているかを計測する認知テストを受けてもらいました。
続く実験では、参加者は脳の特定の箇所を弱電流で刺激できる機器を頭に装着して算数のパズルの問題を解きました。電流は2種類流されて、ひとつは直感的意思決定を高めるもので、もう一つは認知を抑制して論理的思考を促すもでした。
各種のデータを分析した結果、超常現象を信じる信仰の強さと直感的意思決定には因果関係がないことが分かりました。つまり信仰心が強くても科学的な分析的思考ができることになるようです。
この辺りはちょっと意味の分からないところがあるのですが、心理学的実験というのはこんなものかもしれません。
この研究結果は、信仰心は人間にとって自然発生的なものではなく、社会文化的なものであることを示唆しているようです。信仰心が強いからといって、神の御心を直感的にくみ取る能力に優れるわけではないということになります。
次が「神」の代わりに「宇宙人」はどうなのかも調べています。私は神と宇宙人は同列に取り扱うようなものではないような気がしていますが、アメリカノースダコダ州立大学のチームが調べています。
最初の実験では、人生の意味を探し求める欲求が高い人ほど、宇宙人の存在を信じる傾向が出てきました。2つ目の実験では、自らを不可知論者(神が存在するかどうかは知り得ないという立場)あるいは無神論者であると定義している者は、極めて高い確率で宇宙人の存在を信じていることが分かりました。
研究チームは「宇宙人の存在を信じることは存在論的な機能を果たし、人生の意味をより感じさせてくれます。宇宙人存在の信念は、一部の人々が故意に拒否した伝統的な宗教的協議に頼ることなく、宗教に似た機能を提供するものと考えられます」と評論しています。
結局伝統的な宗教への信仰心も宇宙人の実在を信じることも、人生の意味を追求する気持ちの表れであることが指摘されることになったとしています。
この文章は科学者と信仰心という問題を解いていることにはなりませんし、あまりすっきりした結論になっていませんが、哲学的な論点からは一つの提起になっているのかもしれません。