「居場所」という言葉の用例をあれこれ調べていて、まだ漠然とした印象の域を出ないのですが、近年、いや、もう少しだけ正確に言えば、二十一世紀に入ってから、かなり重要な意味づけとともにこの語を使う例が増えているように思われます。
現代日本語のなかで増している「居場所」という言葉の「重み」は、現代日本社会のなかで「居場所」と名指される時空間の喪失が引き起こす問題が深刻化していることの反映だと言えそうにも思えます。
「居場所」という言葉の翻訳での使用例を少し調べてみて、この言葉に対する感性の世代間の違いもあるのかも知れないと思うようにもなりました。
昨日の記事で取り上げたパスカルの『パンセ』の訳について言えば、長年高く評価されてきた定番的な前田陽一訳(1966年)では、「居場所」の使用例はゼロです。それに対して、最新訳である岩波文庫の塩川徹也訳(2015年)では、昨日言及した箇所を含めて、四例を数えます。ただ、私見では、「居場所」が最適の訳語かどうかは必ずしも自明ではありません。ですが、その問題には今日の記事では立ち入りません。
別の例を挙げると、『源氏物語』の現代語訳のなかでも近年特によく読まれている瀬戸内寂聴訳(初版1998年)と角田光代訳(2017年)とを比べてみると、前者で「居場所」という言葉が用いられているのはたった一箇所(夕顔)であるのに対して、後者では六箇所で用いられています。しかも、前者の使用例は「現在居る場所」「居どころ」というニュートラルな意味に過ぎません。1964年刊行の玉上琢彌訳では三箇所で用いられていますが、やはりいずれも「今居る所」という意味です。「自分の家なのに居場所がない」とか「クラスに居場所がない」とか「この世界(あるいは社会)に自分の居場所はない」といった現代的な用法ではありません。
ところが、角田訳では、玉上訳や瀬戸内訳と同様な意味での用例もニ箇所ありますが、その他の四例は登場人物のこの世での在り方にかかわる箇所で以下のように用いられています。「この世に自分の居場所などない」(宿木)「中将の君は居場所もないように思い」(宿木)「この世に私の居場所はない」(宿木)「この娘は本当に頼りなく、居場所もない身の上なのだ」(浮舟)の四例です。
この四例のうち、「中将の君は」云々(原文は「はしたなく思ひて」)を除く三例の原文では、「所狭し(ところせし)」という形容詞が用いられています。この形容詞およびその派生形は『源氏物語』だけでも60例以上あり、どの学習古語辞典もかなり詳しく説明しているいわゆる重要基本古語の一つです。
『古典基礎語辞典』でも一頁三段組のうちの二段分を超える量のスペースが「所狭し」の解説と語釈に割かれています。その解説を読むと、「所狭し」には「居場所がない」という表現ではカヴァーできない意味領域もありますが、「いる場所が窮屈である。自由勝手にできない、身の置き所がない、あるいは肩身が狭い、などの居心地が悪く苦しい感情を表すことも多い」とあるように、まさに「居場所がない」に対応する意味で用いられている用例もあることがわかります。
古語「所狭し」の用例のいくつかから、「居場所がない」と感じるのは現代人固有の感覚ではなく、時代の如何に関わりなく、この世に棲まう人間を襲いうる実存感覚であると言えそうです。
しかし、まさにそうであればこそ、現代人が感じる「居場所のなさ」の特異性はどこにあるのかという問いは、安易な一般化に陥らない仕方で問われなくてはなりません。
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