昨日の記事のなかに引用したシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』の一節は、「浄めるものとしての無神論」(L’athéisme purificateur)と題された章のはじめのほうにある。その章の冒頭の断章は、一九四七年にプロン社から刊行された初版とガリマール社の『シモーヌ・ヴェイユ全集』(全一六巻)の「雑記帳(カイエ)」全四巻の第二巻の当該箇所との間で若干の異同がある。後者を引用しよう。
Cas de contradictoires vrais. Dieu existe, Dieu n’existe pas. Où est le problème ? Nulle incertitude. Je suis tout à fait sûre qu’il y a un Dieu, en ce sens que je suis tout à fait sûre que mon amour n’est pas illusoire. Je suis tout à fait sûre qu’il n’y a pas de Dieu, en ce sens que je suis tout à fait sûre que rien de réel ne ressemble à ce que je peux concevoir quand je prononce ce nom, puisque je ne peux pas concevoir Dieu. Mais cela, que je ne puis concevoir, n’est pas une illusion — Cette impossibilité m’est donnée plus immédiatement que le sentiment de ma propre existence.
Œuvres complètes, vol. VI, Cahiers, tome II, p. 126.
下線を引いた部分がプロン社版(ティボン版)では削除されている。ヴェイユから「雑記帳」を託されたギュスタヴ・ティボンはどのような理由で上掲三箇所を削除したのか。ティボン版は「カトリック的」な主題が前面に押しだされていると言われる。言い換えれば、「反カトリック的」な言辞は削除されるか、弱められるか、改変されている。この引用の中では、神を構想することの不可能性とその確実性に関わる言辞が削除されている。
岩波文庫版の冨原真弓訳はガリマール版に依拠して、ティボン版の削除箇所のうち、ダッシュ以下の一文のみ復元して当該断章を次のように訳している。
真正な矛盾の例。神は実在する、神は実在しない。問題はどこにあるのか。わたしは神の実存を迷わず確信する。わたしの神への愛が幻想ではないことを確信するがゆえに。私は神の実存はありえないと迷わず確信する。実在するものがなにひとつ、この名を発するときにわたしが構想するものと似ていないことを、迷わず確信するがゆえに。だが、構想できなくても幻想ではない。構想できないというこの感覚は、わたしの実存の感覚よりも無媒介的に与えられているのだ。
なぜガリマール版の本文をそのまま全部訳さず、一部のみ復元したのか、その理由は示されていないのでわからない。
以下、冨原訳についての私の小さな疑義を列挙する。しかし、それは、細部を論ってこの優れた労作を貶めたいからではなく、疑義にできるだけ正確な表現を与えることを通じて、この断章でヴェイユが言いたいことに迫りたいからである。
まず、一切の不確実性を強く否定している表現である « Nulle incertitude »(いかなる不確実性もない)を訳さなかったのはなぜか。
この表現のあと、ヴェイユは « je suis tout à fait sûre » という表現を立て続けに四回使う。冨原訳は四回中三回「迷わず確信する」と訳し、一回だけ「確信する」とだけ訳している。
それは措くとして、「確信」という訳語は適切だろうか。この語の一般的な用法として、例えば、「勝利を確信する」「やつが犯人だと確信する」などと言うとき、「まだそのことが現実には最終的に確定していないが、自分としてはもはやそれを疑いえないほど信じている」ということを意味する。
しかし、ヴェイユが « je suis tout à fait sûre » と繰り返すとき、それは、まだ最終的に実現されていないことについての単なる主観的な確信の表明ではなく、疑う余地も迷う余地もなく、論証というプロセスも経ることのない直接的な「確かさ」の経験の言明ではないだろうか。だからこそ、「真正な矛盾」は « Nulle incertitude » だとまずきっぱりと記したのではなかったか。
「神への愛」は、神の実在がまず確信されてから生まれるのではない、それは神の実在の「結果」でもない、真なる愛はそれ自体において疑う余地のない確実性の経験なのだ、とヴェイユは言いたかったのではないだろうか。
他方、わたしが自力によって構想可能なすべては神ではない。神はわたしによって構想されうるいかなるものとも似ていない。 « Réel » は「実在するもの」だろうか。これは日本語に訳するときに仕方のない面もあるが、「在」という漢字に私は引っかかってしまう。「在る」かどうかではなく、「現‐実」であるかどうかがここでの問題だと思うからである。
« Cela, que je ne puis concevoir, n’est pas une illusion » を「構想できなくても幻想ではない」と訳すのは適切であろうか。むしろ、「わたしは構想できないという、そのことは、幻想ではない」と訳すべきではないだろうか。つまり、神の構想不可能性は疑う余地がない、という確実性の「わたし」における経験をこの一文で表現しているのではないであろうか。
ダッシュ以下の最後の一文 « Cette impossibilité m’est donnée plus immédiatement que le sentiment de ma propre existence » は、「構想できないというこの感覚は、わたしの実存の感覚よりも無媒介的に与えられているのだ」と訳されている。しかし、「構想できないという感覚」の「感覚」に対応する語は原文にはない。それは当然のことで、この « impossibilité » は、感覚・感性・感情の媒介に依ることなく、原事実として直接(無媒介的に)わたしに与えられているからである。
神への愛と神の構想不可能性という「真正な矛盾」は同じ一つの確実性「インマヌエル」の両面であるということをこの断章は凝縮された対偶的表現を中心にして示していると私には思われる。