内的自己対話-川の畔のささめごと

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「われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄」― 見田宗介『まなざしの地獄』より

2024-06-20 07:48:31 | 読游摘録

 見田宗介の論文「まなざしの地獄」の初出は『展望』1973年5月号で、1979年に単行本『現代社会の社会意識』(弘文堂)に収録され、現在は単行本『まなざしの地獄』(河出書房新社、2008年)として、「新しい望郷の歌」(初出『日本』1965年11月号、単行本収録『現代日本の心情と論理』筑摩書房、1971年)と合わせて刊行されている。この河出書房新社版には大澤真幸の力作解説が付されている。
 著者の見田宗介は2017年にこの論文について朝日新聞のインタビューを受けている(朝日新聞2017年3月22日掲載)。それもまた興味深い内容を含んでいる。
「まなざしの地獄」の初出からちょうど五十年後の昨年、仏訳 L’enfer du regard. Une sociologie du vivre jusqu’à consumation, CNRS Editions が出版された。訳者のお二人は私もいくらか存じ上げている方たちで、信頼のできる訳であることは間違いない。
 「地獄」という言葉が使われている箇所を、書名、目次、小見出し等で使われている場合を除き、本文から拾ってみた。最後のやや長めの引用は「まなざしの地獄」の最終段落である。

そしてN・Nが、たえずみずからを超出してゆく自由な主体として、〈尽きなく存在し〉ようとするかぎり、この他者たちのまなざしこそ地獄であった。

それは彼らを不意にのぞきこみ、分類し、レッテルを貼って、彼ら自身ではない、まるで別の存在に、彼ら自身を仕立てあげ変身させてしまう、あのまなざしの地獄からの避難場所である。

こんにち都市に、その先住者たちを含めて広汎に存在している、蒸発と変身への衝動は、まさにこのようなまなざしの地獄からの脱出の願望に他ならない。

都市が人間を表相によって差別する以上、彼もまた次第に表相によって勝負する。一方は具象化された表相性の演技。他方は抽象化された表相性の演技。おしゃれと肩書。まなざしの地獄を逆手にとったのりこえの試み――。

ボヘミヤの箱は堅固な物質によって、成長する少年たちの肉体を成形してゆく。〈まなざしの地獄〉は他者たちの視線によって、成長する少年たちの精神を成形していく。ボヘミヤの箱と異なって、それは少年の内面を成形するのであるから、それは彼らの自由意思そのものを侵食せざるをえない。

まなざしの地獄の中で、自己のことばと行為との意味が容赦なく収奪されてゆき、対他と対自とのあいだに通底しようもなく巨大な空隙のできてしまうとき、対自はただ、いらだたしい無念さとして蓄積されてゆく。

ある人はある人とよりも貧しく、ある人はある人よりもいっそうさげすまれている。だから貧困や屈辱の体験は、直接にはいつも、同胞と自己とをまさに差異づけるものとして、孤独のうちに体験される。だからこの直接性にとどまる限り、それは同胞への怨恨や怒りとして経験される。この蟻地獄の総体をのりこえさせる力は、怒りそのものの内部にはない。

「世間」はその無関心によって、家族の無関心を罰する。〈見捨てる者〉の因果の地獄。だがわれわれ「世間」にとっての「世間」とは何か? それはもちろん、世間の外なる世間、亜・世間である。それはわれわれ自身でもあるが、とりわけ抑圧され、差別され、「亜人」として、物として存在することを強いられたものすべての怨恨である。

われわれはこの社会の中に涯もなくはりめぐらされた関係の鎖の中で、それぞれの時、それぞれの事態のもとで、「こうするよりほかに仕方がなかった」「面倒をみきれない」事情のゆえに、どれほど多くの人びとにとって、「許されざる者」であることか。われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見すててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である。

 自分もまたこの「存在の原罪性」を負ったものであることを私は認めないわけにはいかない。