内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

運河の片隅で午睡に微睡む白鳥の雛鳥たちは何羽いるでしょうか?

2024-06-08 17:32:43 | 雑感

 今日の午後、ジョギング中に、自宅近くを流れるマルヌ・ライン運河の水門の片隅で一塊になって午睡に微睡でいる白鳥の雛鳥たちを見かけました。二週間前にやはり自宅近くの北墓地脇の車道で見かけた二羽の雛鳥たちとは別の家族です(それについてはこちらの記事を御覧ください)。ただ、大きさからして同時期に生まれたのでしょう。水面とほぼ同じ高さの小さな長方形の石段の上にお互いにくっつきあうようにして寝ているので、ちょっと見ただけは何羽いるのかわかりません。さて、いったい何羽いるでしょうか? 添付した写真だけではわからないかも知れません。こちらに動画をアップしておきました。

 


近隣の複数の教会で同時に鳴り始めた鐘のように

2024-06-08 12:53:56 | 読游摘録

 教育・研究にとって重要だと判断した書籍と個人的な関心から味読したい書籍とは、紙版と電子書籍版の両方を購入することがここ数年多くなった。
 必要に迫られて部分的に参照するだけのときは電子書籍版を主に用いる。それは読書とは言えないと思うが、本の使い方の一つではある。こういう「便利な」利用法は、著者に対して失礼だと思うことはあるが、紙版だけで仕事をしていた頃に比べれば、検索・参照・引用箇所特定にかかる時間を圧倒的に節約できるようになったのがありがたい。
 他方、他の本で引用されていた一節を確認するために引用元の書籍の紙版の頁をめくっていると、思わぬ「余得」に恵まれることがある。調べる必要があった箇所とは別の頁で、あるいは、それをきっかけとして、別の本のなかで、心に触れてくる言葉、一文、一節などに出遭えることがある。しばしばあるとさえ言える。
 そのような出遭いや発見は愉しい。ただ、そういうことが続けざまに起こると、ちょっと危ない陶酔的な混乱状態に陥る。今、そうである。
 『須賀敦子全集』第八巻の松山巌の解説のなかにシモーヌ・ヴェイユの『重力と恩寵』からの引用がいくつかある。その中の一つが、「神についてどんな体験もしたことがないふたりの人の中で、神を否認する人の方がおそらく、神のいっそう近くにいる。/触れることがないという点を別として、にせの神は、あらゆる点で真の神に似ているのだが、それはいつでも真の神に近づく妨げになる。」(田辺保訳)
 原文は以下の通り。

 Entre deux hommes qui n’ont pas l’expérience de Dieu, celui qui le nie en est peut-être le plus près. 
 Le faux Dieu qui ressemble en tout au vrai, excepté qu’on ne le touche pas, empêche à jamais d’accéder au vrai.

 岩波文庫版の冨原真弓訳は同箇所を次のように訳している。
 「神の臨在を体験していないふたりの人間のうち、神を否認する人間のほうがおそらく神に近いところにいる。/偽りの神は、接触がかなわないという一点をのぞき、万事において真の神に似ているが、われわれが真の神に近づくのをどこまでも妨げる。」
 冨原訳中の「臨在」に対応する語は原文にはない。おそらく「神の体験」をインマヌエル(ヘブライ語で「神われらと共にいます」の意)と取っての訳だと思われる。
 この一節を読んで、私はジャン=リュック/ナンシーの『脱閉域 キリスト教の脱構築1』(現代企画室、2009年)の次の一節を思い合わせた。
 「キリスト教的な保証とは、いわゆる宗教的な信仰=信条〔croyance〕のカテゴリ-とは完全に対極にあるカテゴリーにおいてのみ起こりうる。この信〔foi〕のカテゴリーは、不在性に対する忠実さであり、あらゆる保証が不在なところでこの忠実さに確信を抱くことである。この意味で、慰めを与えるような、あるいは贖いをもたらすようないかなる保証も断固として拒絶する神なき者[無神論者 athée]は、逆説的あるいは奇妙な仕方においてであるが、「信者」よりも信の近くにいる。」(七一頁)。

L’assurance chrétienne ne peut avoir lieu qu’au prix d’une catégorie complètement opposée à celle de la croyance religieuse : la catégorie de la « foi », qui est la fidélité à une absence et la certitude de cette fidélité en l’absence de toute assurance. En ce sens, l’athée qui refuse fermement toute assurance consolatrice ou rédemptrice est paradoxalement ou étrangement plus proche de la fois que le « croyant ».

La Déclosion, Galilée, 2005, p. 56.

 この一節、先月刊行された『滝沢克己の現在』(新教出版社)に寄せた拙論「哲学との一つの真正な出会い方」のなかで引用している。この直前の箇所でナンシーがその一節に言及しているマイスター・エックハルトの説教52「三つの内なる貧しさについて」からも引用している。
 今、頭の中で、いや、体中で、これらの文章が近隣の複数の教会で同時に鳴り始めた鐘のように重なり合って響いている。それが一過性の陶酔的な混乱に終わるのか、そこから何かが生まれてくるのか、まだわからない。