内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

燦々と言葉が響き合う大伽藍の片隅で

2024-06-11 11:54:39 | 読游摘録

 須賀敦子は、昨日の記事で引用した「星と地球のあいだ」のなかで、サン=テグジュペリの『戦う操縦士』から、もうひとつ「私にとって忘れることのできない文章」として、以下の堀口大學の訳文を引用している。

建築成った伽藍内の堂守や貸椅子係の職に就こうと考えるような人間は、すでにその瞬間から敗北者であると。それに反して、何人であれ、その胸中に建造すべき伽藍を抱いている者は、すでに勝利者なのである。勝利は愛情の結実だ。……知能は愛情に奉仕する場合にだけ役立つのである。

Celui-là qui s’assure d’un poste de sacristain ou de chaisière dans la cathédrale bâtie, est déjà vaincu. Mais quiconque porte dans le cœur une cathédrale à bâtir, est déjà vainqueur. La victoire est fruit de l’amour. …… L’amour seul gouverne vers lui. L’intelligence ne vaut qu’au service de l’amour.

 同じ箇所の鈴木雅生訳も引こう。

完成した後の大聖堂のなかで安穏と香部屋係や貸椅子係の職にしがみつくだけの人はすでに敗北者だ。けれども、建立すべき大聖堂を心の内に宿している人は、すでに勝利者なのだ。勝利は愛が結実したものだ。……知性に価値があるのは、それが愛に仕える場合にかぎられる。

 心の内に建立すべき大聖堂とは、何かその人に固有の独創的な大事業などではないことは、この引用箇所が含まれている第24章の先立つ部分を読めば明らかである。それは、端的に一言で言えば、人間同士のコミュニオン(communion)である。
 きわめて簡勁な文体で綴られたその先立つ部分から一部を引用する。

私はこの村との語らいを心に決めていた。ところが私には語るべきことはなにもない。私は枝にしっかりとついた果実のようなものだ。数時間前、不安が収まったとき頭によぎったあの果実。自分はこの国の人々に結びつけられている、ごく自然にそう感じている。私はこの人々の一部であり、この人々は私の一部だ。あの主人はパンを皆に配ったとき、なにかを与えたわけではなかった。分かち合い、交換したのだ。同じ小麦がわれわれのなかをめぐった。主人は貧しくなりはしなかった。逆に豊かになっていた。よりよいパン、共同体のものとなったパンによって自らを養っていたのだから。今日の午後、この国の人々のために出撃したとき、私もまたなにかを与えたわけではなかった。わが隊の者は、この国の人々になにも与えてはいない。人々が戦争に払う犠牲の部分を担っているにすぎない。私は、オシュデがなぜ大げさなことをなにひとつ口にせず黙々と戦っているのか理解する。村のために槌をふるう鍛冶屋と同じなのだ。「あなたは誰だね?」と尋ねられる。すると鍛冶屋は「村の鍛冶屋です」とだけ答えて嬉しそうに働く。(鈴木雅生訳、一部改変)

Je m’étais promis cette conversation avec mon village. Mais je n’ai rien à dire. Je suis semblable au fruit bien attaché à l’arbre auquel je songeais, voilà quelques heures, quand l’angoisse s’est apaisée. Je me sens lié à ceux de chez moi, tout simplement. Je suis d’eux, comme ils sont de moi. Lorsque mon fermier a distribué le pain, il n’a rien donné. Il a partagé et échangé. Le même blé, en nous, a circulé. Le fermier ne s’appauvrissait pas. Il s’enrichissait : il se nourrissait d’un pain meilleur, puisque changé en pain d’une communauté. Lorsque j’ai, cet après-midi, décollé pour ceux-là, en mission de guerre, je ne leur ai rien donné non plus. Nous ne leur donnons rien, nous du Groupe. Nous sommes leur part de sacrifice de guerre. Je comprends pourquoi Hochedé fait la guerre sans grands mots, comme un forgeron qui forge pour le village. « Qui êtes-vous ? – Je suis le forgeron du village. » Et le forgeron travaille heureux.

 この村の鍛冶屋が「建立すべき大聖堂を心の内に宿している人」なのだ。
 この「大聖堂」という言葉を見たとき、十年前に書いた自分の記事のことを思い出した。