内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

音読しようとして訓みを決めかねるときのもどかしさ

2025-03-08 06:43:04 | 日本語について

 授業で日本の文学作品を引用するときに困ることの一つは、漢字あるいは漢語の訓みが特定できない場合があることである。これは古典に限らず、近代の作品でもしばしば出くわす問題で、黙読で読み飛ばす場合はともかく、どう訓んでも意味上・解釈上は問題がない場合でも、音読するためにはとにかく一つの訓みを選ばなくてはならないから、この問題を無視するわけにはいかない。
 訓みが複数可能である漢字あるいは漢語の場合はそのうちのいずれかを選ばなくてはならない。送り仮名のあるなしによって訓みが変わる場合もある。現代仮名遣いが一応制定される前の文章には、送り仮名なしで訓読みする場合(例えば、「考」で「かんがえ」)が多い。その作品独特の訓みがある場合もあるし、作家固有の訓み癖もあったりする。そんなこんなで、いざ声に出して読もうとすると、はたと困ってしまうことがままある。
 例えば、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』の次の一節をご覧いただきたい。

もしあの陰鬱な室内に漆器というものがなかったなら、蠟燭や灯明の醸し出す怪しい光りの 夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられているごとく、一つの灯影を此処彼処に捉えて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。

 手元には四つの文庫版があるが、上掲の引用は岩波文庫(1985年)によった。その他の版は、中公文庫(1995年改版)、角川ソフィア文庫版(2014年)、新潮文庫(2016年)である。
 これらの版の間での漢字表記の異同は、角川ソフィア文庫版だけ「此処彼処」を「ここかしこ」と平仮名表記に改めていることと、中公文庫版と新潮文庫版は「と云うもの」と漢字「云」を残していることである。その他の表記の異同は、中公文庫版だけ「ちらちら」の二つ目の「ちら」が繰り返し記号(平仮名「く」を二文字分に引き伸ばした形)になっていることである。送り仮名の異同は、角川ソフィア文庫版のみ「光り」の「り」を省いていることである。
 なお、初版および戦前の再版および全集版は歴史的仮名遣いであるが、それによって訓みが変るわけではないので、現代仮名遣いに表記が改められている上記の四つの版の振り仮名を比べてみた。
 一番親切に振り仮名が振られているのは岩波文庫版であるが、それでも「減殺」には振られておらず、これに「げんさい」と振り仮名が振られているのは新潮文庫のみ。ただ、これは「げんさい」が正しい訓みなのに「げんさつ」と誤って訓まれることが多いから付されただけで、可能な複数の訓みの間での選択の結果ではない。
 どの版によっても、あるいは同作品内の他の用例にあたっても特定できないのが、「灯」と「池水」(用例はここのみ)である。前者は「ひ」「あかり」「ともしび」の三つの訓みが可能である。後者には音読み「ちすい」と訓読み「いけみず」がある。
 引用箇所の直前の文には「ともし火」と表記されている。しかし、このことから直ちに「灯」は「ともしび」とは訓まないとは結論できない。同じ言葉を違った表記で使うことは谷崎に限らず珍しいことではないし、直前の「怪しい光り」の言い換えとしてむしろ「ともしび」が相応しいとも言えるからである。
 他方、「灯」を「光り」の言い換えと見れば、「ひ」も「あかり」も捨てがたい。ただ、これはまったく私個人の語感だが、「あかり」という言葉は、「かすかな」とか「ほのかな」とか形容されている場合はともかく、単独では「明るさ」を連想させ、「はためき」となじまないと感じる。
 この一節を目で読むのではなく、原文の表記を知らずに初めて耳で聞くだけだと、訓みによってどのような表象の違いが生じるだろうか。「ソノヒノハタメキ」と「ソノトモシビノハタメキ」とではどう違うか。前者の場合、「灯」ではなく「火」を連想しやすく、「怪しい光り」との間に若干の不協和を感じないだろうか。
 『陰翳礼讃』に限っても、「灯」が漢語の一部をなしている例(電灯、行灯など)は数十例に上るが、それらは「灯」の訓みの確定には役に立たない。「灯」一字で単語として用いられている例は、「蠟燭の灯」が三例、「灯に照らされた闇」が一例。動詞「灯す」の活用形が用いられている箇所は四例(うち一つが「灯し火」)。それらを参照しても、上掲引用箇所の「灯」の訓みを特定する決め手にはならない。
 ただ、「灯」を一貫して「ひ」と訓むことを積極的に支持する論拠は『陰翳礼讃』には見出しがたい。
 谷崎自身は、『陰翳礼讃』の執筆当時、自分の文章が音読される場合のことが念頭になく、「灯」という漢字の訓みを意識せずに、「ともしびのほのかなひかり」の意をこの一字に込めていたのかも知れない。
 現時点で私に言えるのはここまでである。
 以上の説明をしたうえで、教室では上掲引用箇所の「灯」には「ともしび」という訓みを採ることにしている。
 「池水」は音読みと訓読みとの間で意味の違いはない。どちらも古代から用例がある。こちらも選択の決め手はない。その前後の漢字および漢語がすべて訓読み(「灯影」は「ほかげ」)であるから、「池水」だけ音読みにする積極的な理由はない。
 それに、直前に「小川」のイメージが与えられているところで、「イケミズ」と聞けば自ずと「池水」という漢字の組み合わせとそれがもたらすイメージとが同時に浮かぶであろう。「チスイ」と「池水」との間にはそこまで緊密な連想関係はないと私には感じられる。
 よって、「いけみず」という訓みを私は採る。