内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

現在ストラスブール大学で公開中の日本関係の展覧会―「江戸・本の首都」と「辻邦生、パリの隠者」

2025-03-09 14:29:48 | 雑感

 ストラスブール大学と学習院大学とにはかなり密度の高い交流がここ二十年ほどある。先月28日からメインキャンパスにある、学生会館兼図書館(さらに展示室と教室も備わった)Studium という建物で、江戸期の絵巻物・刊本など学習院大学が所蔵する貴重な史料が一般公開されている。この展示会 « Edo, Capitale du livre »と同時に、学習院大学で長年教鞭を執っていた小説家辻邦生展 « Tsuji Kunio : un anachorète à Paris » も同じ建物で同時開催されている。辻邦生展が弊学で開催されるのはこれで二度目。一度目は確か八年前の同じ時期だったと思う。
 高校卒業前後から学生時代にかけて、辻邦生を愛読していた。当時刊行されていた作品はすべて単行本を買って読んだ。結構な出費だったと思うが、それくらい熱中していたということである。『春の戴冠』(1977年)が刊行される前後のことだった。
 熱狂が昂じて自分でも小説を書き始めた。が、数日で投げ出した。自分には文学的才能が欠片もないことがわかったからである。
 辻邦生は、数年に亘るフランス留学経験があり、その後も長期滞在の経験が何度もあり、学習院大学ではフランス文学を長年講じていたことなど、フランスとのつながりには一方ならず深いものがある。私がパリで暮らしていたアパートから歩いて10分くらいのところにある5区デカルト通りには、辻邦生がパリ滞在のたびごとに暮らしていたアパートがあり、その建物には没後記念プレートが掲げられている。パリに記念プレートがある日本の文学者が他にいるのかどうか知らないが、いてもごく少数だろう。
 ところが、残念なことに、彼の作品はほとんどフランス語に訳されていない。いくつかの短編が他の作家の作品と一緒にアンソロジーのなかに収められているだけである。彼の本領はやはり長編にあると思うが、それらはまったく訳されていない。
 確かに、それらの作品を訳すのは並大抵の仕事ではないことはわかるが、他方で、名前は挙げないが、なんでこの作家のこの作品が訳されているの? と不審に思う場合もあることを思い合わせると、かなり不当な扱いではないかと憤ってしまう。
 出版社の思惑を想像するに、辻の作品中、ヨーロッパを舞台にしたものは、フランスの読者には新鮮味がないということはあるだろう。でも、『安土往還記』『天草の雅歌』『嵯峨野明月記』『西行花伝』などは訳されてもいいのではないか。
 というわけで、現代文学の授業では、辻邦生の作品を特に熱を込めて紹介した。学生たちのなかの誰かが将来いずれかの長編を翻訳してくれないかなあと淡い期待を胸に秘めつつ。