内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(九)

2014-03-12 00:03:00 | 哲学

2.2.1 デカルト再考
 昨日の記事で引用した第二の定義がその「付録」の中に見出される論文「デカルト哲學について」の中で、西田はデカルトによって提起された問題と実践された方法へと今一度立ち返って考えることの必要性を訴えているが 、それはまさに哲学を根本的に始め直すためであり、つまり哲学の〈始源〉を再び見出すためである。「今や近世の主観主義的哲学が行詰って、その根柢から考え直さねばならぬ時期にある 」と同論文の中で書くとき、西田は疑いもなくフッサールが『デカルト的省察』の中で感じていた危機感を共有しているのである 。その死の前年に書かれたこの比較的短い論文の中で、西田は自らが到達した最終的な哲学的立場から自己の哲学的探究の方向性をデカルトのそれとの関係において位置づけている。デカルト的懐疑の徹底性をきわめて高く評価する一方で、デカルトが到達したコギトを、実体化せずに、それを真実在の自覚として、さらに徹底化させるべき方向を示すことによって自らの哲学的立場をデカルトのそれから区別している(本稿では、西田のデカルト解釈の当否について、それを現代のデカルト研究の成果に照らして検討することはしない)。それゆえ、西田がデカルト哲学について提示する論点とそれについて表明される西田固有のテーゼとを考察することを通じて、西田において哲学の〈始源〉が顕現する場面を捉えることができるだろう。
 西田にとって哲学の根本問題とは、「自己自身によって有り、自己自身を限定する 」真実在の問題である。「哲学の対象は対象なき対象である、自己自身に於てあり、自己自身によって理解せられる真実在である 。」「対象的に知ることのできない自己は、最も能く自己に知れたものでなければならない。一方に我々は自己が自己自身を知ると考える、かかる意味に於て知るとは、如何なることを意味するのであろうか 。」このように定式化された前提と問いから、西田はデカルトの『省察』へと接近する。
 西田のデカルト哲学へのアプローチの特徴をよく捉えるためには、それゆえ、西田による真実在の定義をまず理解しておかなければならない。

真に自己自身によって有り、自己自身を限定するものは、それ自身に於て有り、それ自身によって理解せられるのみならず、自己自身を理解するもの、自覚するものでなければならない。

 真実在は、他のすべての可能な存在者に対して独立に必然的に存在し、他のものとの関係において理解されるものではなく、それ自身によって理解されるものでなければならない。この「それ自身によって」は二重の意味を持っている。つまり、「他から独立にそれ自体において」という意味だけでなく、「他に拠らず自ら」という意味も持っている。したがって、それ自身によって理解されるものは、自己自身を理解するものに他ならない。ここには自己理解を遂行するものの内部分裂、つまり理解する自己と理解される自己との内部分裂があるのだろうか。そうではない。なぜなら、真実在は、また自己自身を限定するものでもあり、唯一の実在が理解するものと理解されるものとに自己限定するからである。それゆえ、ここでは主観的自己と客観的自己との間の実体的区別が問題になることも、超越論的主観性と志向的客観性との間の現象学的区別が問題になることもない。ここで問題になっているのは、いかなる実体的基底も前提せず、いかなる種類の二元論にも還元されえず、超越論的自我をまったく要求することのない唯一つの同じ過程としての自己理解である。自己自身を理解するものは自覚するものであるというのは、自己が直接的にまったき自明性とともに自己自身に与えられるということであり、そこには最初に経験された自明性から出発して構成されるようないかなる推論過程も介在する余地はない。
 このような真実在の定義から、西田は、その直接的な把握へと導く途を開く哲学の方法を導出しようとするのだが、まさにそこにおいてデカルトの『省察』を喚起する。西田によれば、真実在へと至る哲学的方法とは、「懐疑による自覚」であり、それはデカルト的懐疑であり、「徹底的な否定的分析」に他ならない 。この哲学の方法は「否定的自覚、自覚的分析 」とも規定される 。真実在は、いかなる仕方でも、外部から到達され、掌握され、解明されるものではありえない。それは、自己自身から自己自身によって自己自身において明らかにされなければならない。それを可能にするのが「絶対否定的自覚 」なのである。西田は、それをデカルト的懐疑と同一視するわけであるが、西田にとって重要なのは、徹底的な懐疑を通じて、徹底的に懐疑することそのことのうちで自覚が直接経験されるということである。
 しかし、西田は、デカルト哲学の不徹底性を批判する。その批判点は、自己の実体化に関わる。徹底した懐疑において直接経験される自覚は、それ自身からそれ自身によってそれ自身において明らかにされる純粋な事実でなければならず、この事実はその実体化へと導くどのような推論も許さないというのが西田のデカルトに対する批判点である。この実体化は、自覚を実体的に自己同一的なものとし、その結果として、不可避的に自覚の自己否定性を排除してしまう。このように自覚するものが実体化されてしまうと、自己否定の無限の過程である自覚はその生命を決定的に失ってしまう。「コーギトー・エルゴー・スムと云って、外に基体的なるものを考えた時、彼は既に否定的自覚の途を踏み外した、自覚的分析の方法の外に出たと思う 。」西田によれば、疑う自己の実在そのものにまで及ぶ懐疑は直接的に経験されるもので、思惟するものの実在という形式においては自己にけっして現れず、自己否定的な思考の自己矛盾的同一性として把握される。「自己は、何処までも自己自身を否定する所にあるのである。而もそれは単なる否定ではなくして絶対の否定即肯定でなければならない。それは主語的論理が自己自身を否定することによって考えられる実在でなければならない 。」「デカルトは、自覚の立場から、すべてを否定した。併し[・・・]真の否定的自覚の立場に至らなかった 。」西田の哲学的立場からすれば、デカルト的コギトは、その実体的自己肯定によって特徴づけられるのに対して、西田の哲学の方法としての自覚は、無限の過程として経験される自己否定によって特徴づけられる。この自己否定は、しかし、主観的無化でもないし、主体の無化でもない。徹底した自己否定の過程において経験される確実性は、絶対的否定の現実性に他ならない。