内的自己対話-川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(一)

2014-03-04 00:03:00 | 哲学

1— 原初的事実としての純粋経験

 「純粋経験」は、西田哲学の初源にありかつ常にその底に生起しつづける出来事という意味で、西田哲学における〈原初的事実〉である。それは西田の哲学的言語システムの中でその名をもって呼ばれることがなくなった後にもそれとして生動しつづけ、西田の哲学的思考を起動させ続ける。それゆえにこそ、純粋経験に始まる西田哲学の全過程を生命の原初的前反省的経験である純粋経験の自己展開の過程として捉えることができる。とはいえ、そこに見られるのは一つの単純な直観を出発点とする直線的な理論的展開ではなく、純粋経験が自らの内包する自己矛盾をそれとして引き受け、自覚の契機を経て、「場所」の論理へと到達し、そこからさらに最終的な立場である「歴史的生命」の論理へと至る曲折を極めた思考のプロセスである。純粋経験の最初の瞬間から私たちの考察を始めることは、純粋経験を基点とした単線的な構図へと西田哲学を還元することではなく、その錯綜し重層する全過程をある首尾一貫した視野において捉えるという意図に基づいている。

1.1 〈始源〉の経験の始まりとしての純粋経験
 西田の全哲学的思索の基点である『善の研究』の冒頭の第一段落は、西田哲学における〈始源〉の経験の始まりとして読むことができる。

純粋経験というのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といって居る者も其実は何等かの思想を交えて居るから、毫も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。

 この最初の純粋経験の定義は次の三つのテーゼを含意している。第一に、純粋経験とは、知る働きそのものであって、外部からの作用に依存する受動的な状態ではないということである。第二に、純粋経験において思考する主体と思考される対象との分裂はないということである。第三に、純粋経験は、反省および判断とは区別され、さらに一般的には考える我の思考とも区別されながら、知ることそのことにほかならないことである。それは自発的かつ直観的な知であり、そこには知るものと知られるものとの区別はない。
 そこで、私たちは、この純粋経験の定義に対して、次のような三つの問いを立てることができる。純粋経験はどのように生じるのか。純粋経験は少なくともそれに対して現れる何ものかを要求しないのか。純粋経験においても、少なくとも経験する者と経験内容とは区別されなければならないのではないか。これらの問いに対して西田は次のように答える。

例えば、色を見、音を聞く刹那、未だ之が外物の作用であるとか、我が之を感じて居るとかいうような考のないのみならず、此色、此音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。

 西田によって与えられたこれらの例から、純粋経験はあらゆる反省的思考様式に先立ち、感覚の最初の瞬間において直接経験されるものだということがわかる。それゆえ純粋経験は何ら神秘的な経験ではなく、まったく具体的な経験、私たちすべてにつねに可能な経験であり、そのためにいかなる予備知識も必要ではなく、いかなる事後的な反省も必要ではない。それゆえ西田は「純粋経験は直接経験と同一である 」と言う。
 つまり、純粋経験は、反省が私たちの生のある時点において生きられたものに対して距離を取ることであるかぎり、反省されるときには追い越され、遠ざかり、失われたものとして表象される。

自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識と其対象とが全く合一して居る。これが経験の最醇なる者である 。

 この段階において、つまり西田が「最醇なる者」と呼ぶ純粋経験の最初の瞬間において、所与を分析する考える主体と所与として与えられる対象との間の分裂はまだ生じていない。西田自身『善の研究』の初版の序で述べているように、「個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである、個人的区別よりも経験が根本的である[・・・] 。」初源の知として、純粋経験は直接に自らを知る。他のすべてがそれを前提とし、それ自身は何も前提しない〈原初的事実〉として、純粋経験は同時に知るものであり、知られるものであり、初源の知が生まれる〈そこ〉である。それは知の初源の自己贈与である。

真の純粋経験は何等の意味もない、事実其儘の現在意識あるのみである 。

 このテーゼが意味しているのは、純粋経験はまずそれが何らかの仕方で命名される前に生きられた現前として端的にあり、純粋経験とは、言語活動に先立つ純粋な直接性としての現在の現前であり、それはいっさいの言語的あるいは表象的限定を逃れるということである。純粋経験は、何ものかについての経験ではない。この意味で、純粋経験は、それについて語りえないものであり、所与を解析しそれを既得の諸要素に還元することを目的とする分析的言語によっては接近することができない。その最初の瞬間において、純粋経験は生きられるほかはない。
 感覚の最初の瞬間に現前する「最醇なる」純粋経験を定義する『善の研究』冒頭の第一段落において、西田があらゆる種類の二元論に対立しているのは言うまでもない。西田において根本的に重要なのは、そこではすべてが一つであり、そこにすべてが潜在的に含まれており、そこから全現実が組織され発展させられる、生命の初源の直接的な自己経験であり、それを西田は「純粋経験」と呼んでいるのである。
 しかし、以上のことは、純粋経験がその純粋性を保持するためには、感覚によって与えられた最初の瞬間のうちにとどまらなければならないということを意味しているのではない。反対に、その最初の瞬間に潜在的に含まれていたすべてのものを現実的に明示的に自ら理解するために、純粋経験は、自ら自己を展開し、発展させ、そして自己を無限に多様な仕方で限定する。純粋経験の最初の瞬間の純粋性は、それゆえその自己発展によって損なわれるのではなく、逆に、初源の純粋性 ― 最初の瞬間に与えられる最も具体的な唯一の現実の純粋性 ― こそが純粋経験のその自己理解の運動を起動させるのである。純粋経験がこの運動の根柢でつねに生動している原初的事実であるかぎにおいて、初源の純粋性はそれとして保持され続けるのである。
 西田が『善の研究』初版の序文の中で「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たい」と書くとき、それは西田が哲学者として純粋経験の自己発展をその外から眺め説明したいということと意味しているのではなく、哲学者西田において純粋経験そのものが自らを表現し、自らを分節化し、展開させることで自らを説明しようとする欲動が発動していることを意味している。純粋経験は、それゆえ、ある独立した自立的な考える主体がまずあって、その主体が哲学的探究を始めるために見出した最初の支点ではなく、西田幾多郎という哲学者において発動した哲学的探究の始源に与えられた名前なのである。