内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第一章(十)

2014-03-13 00:00:00 | 哲学

2.2.2 真実在の自己表現としての自覚
 真実在は、それ自身においてあり、自ら働き、それ自身を限定し、直接的に経験される疑いえない事実としてそれ自身に現れる。この根源的事実は、絶えず自己自身を限定し、自己否定によって自己自身に現れ続ける。では、それは、どこにおいてどのように自らに現れるのか。西田は真実在の自己対象化とその自己表現とを同一のことと考える。真実在は、自己を全面的に対象化することによって客観的なもののうちに自らを限定し、絶えずその絶対的自己否定によって自己を客観的に表現することにおいて、自己自身に直接的に現れる。この根源的事実は、私たちが生きる現実を構成する諸現象の世界によって隠蔽さているものではなく、まったく反対に、その世界そのものの内部に与えられたある時ある所であるものが私たちに現れるというというそのことにつねに直接的に顕現しているのである。つまり、あるものが今ここで私に現れているということは、真実在が自己否定によって自己表現していることの現実的な作用に他ならないということである。現れることそのことが自らに直接現れているそれぞれの事実において、〈自己〉は、私たちにおいてそれとして直接的に生きられているのである。そして、まさにそこにおいてこそ、私たちの自己は、「真実在の自己表現の過程」として自覚する。
 それでは、各瞬間に自覚するものとつねに始まり続ける自覚との関係、つまり私たちそれぞれの自己と自ら働くものである真実在との間で現に保たれ続けている関係とは、どのようなものなのか。すべての出来事は真実在の自己限定として現れるとすれば、私たちの自己の実在は、いかなる意味においても真実在に先立つものではない。しかし、このことは、私たちの自己が真実在に全体に対する一部という関係において帰属することを意味しているのではない。もしそうであったとすれば、私たちの自己と真実在との関係は相互依存の関係に還元され、どちらもその独立性を失ってしまう。「自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない」のであるから、それは絶えず自己否定し続け、まさにそれゆえにこそ、私たちそれぞれの自己は自覚するものとして真実在から完全に独立し自律しうる。この意味で、私たちの自己は、その固有の実在において、自ら働き自己限定する真実在を〈映し〉、あるいは〈表現〉している。「我々の自己が、自己自身によって自己自身を限定するものの自己表現の過程として、真実在の自己表現の一立脚地となる」のである。つまり、真実在が「自己の中に自己を映す」ということが私たちの自己において具体的に現実化されているということである。ここから哲学の根本的な規定が引き出される。

哲学は[・・・]、真に自己自身によって有り、それ自身によって自己自身を限定する根本的実在の自己表現の過程として、何処までも否定的自覚、自覚的分析でなければならない。而してそれはすべての実在の根拠、実在の実在の学として、見るものなくして見る立場、世界が自己自身を映す立場でなければならない。そこには何等の意味に於ても対象的なるもの、否、基体的なるものがあってはならない。推論によって求められるものがあってはならない。

 真実在とは、私たちがそこにおいて生き、それを現実に生きている世界、西田がいう「歴史的世界」「歴史的実在の世界」「歴史的生命の世界」「すべてがそこからそこへ」の〈そこ〉である。「歴史的世界と云うのは、我々の自己がそれに含まれた世界であり、我々がそこから生まれ、そこに於て働き、そこへ死に行く世界である。我々の自己に絶対的な世界である。」自覚は、この歴史的世界が自己限定し、自らに形を与え、それ自身のうちに自己を表現するということから生まれる。自覚は、根本的に世界の出来事であり、世界が自らに与えるものである。しかし、その世界の自覚が最も具体的直接的に現実化されるのは、私たちそれぞれの自己においてであり、「我々の個人的自己の自覚は、かかる世界の自己自身を限定する唯一的事実として成立するのである。」「世界が自覚する時、我々の自己が自覚する。我々の自己が自覚する時、世界が自覚する。我々の自覚的自己の一々は、世界の配景的一中心である。我々の知識は、世界が自己の内に自己を映すことから始まる。」私たちの自己において直接経験される世界の自覚は、私たちの自己に世界の直接経験を与える。つまり、世界の直観であり、それは「すべての点が世界の始となる、時間的・空間的、空間的・時間的世界の自己限定として、見るものと見られるものとの矛盾的自己同一的に、形が形自身を限定する、形が形を見ると云うことである。」この直観こそ西田が「行為的直観」と呼ぶものであり、それは私たちの行為する身体である歴史的身体によって現実化される。
 〈生命〉そのものである〈始源〉に触れることなしに哲学を始めることはできない。私たちの自己の自覚は、〈始源〉に触れることそのことである。自覚は、あらゆる哲学的思考の根柢につねに作用していると言うことができる。しかし、まさにそうであるとすれば、それゆえにこそ次の問いが提起されなければならない。私が哲学を始めるには、私において自覚が経験されるだけでよいのだろうか。そうではないだろう。なぜなら哲学の〈始源〉は、哲学そのものではないからである。哲学は、学問としてそれ固有の方法を要求する。自覚を厳密な意味での哲学の方法として確立することはできるのだろうか。この問いに答える鍵は、西田が哲学の方法を、単に自覚とはせずに、否定的自覚と規定していることにあると思われる。私たちはこの西田哲学の方法論という問題を第二章で詳しく検討する。