内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

〈もの〉が「このもの」になるとき ― ジルベール・シモンドンを読む(61)

2016-05-05 08:42:54 | 哲学

L’eccéité cherchée dans la matière repose sur un attachement vécu à telle matière qui a été associée à l’effort humain, et qui est devenue le reflet de cet effort. L’eccéité de la matière n’est pas purement matérielle ; elle est aussi une eccéité par rapport au sujet. L’artisan, au contraire, s’exprime dans son effort, et la matière ouvrable n’est que le support, l’occasion de cet effort ; on pourrait dire que, du point de vue de l’artisan, l’eccéité de l’objet ne commence à exister qu’avec l’effort de mise en forme ; comme cet effort de mise en forme coïncide temporellement avec le début de l’eccéité, il est naturel que l’artisan attribue le fondement de l’eccéité à l’information, bien que la prise de forme ne soit peut-être qu’un événement concomitant de l’avènement de l’eccéité de l’objet, le véritable principe étant la singularité du hic et nunc de l’opération complète (ILFI, p. 59).

 この引用箇所および前後で問題になっていることは、引用文中に繰返し現れている一語を使って一言で言うと、 « eccéité » の成立契機である。
 この « eccéité » といフランス語は、中世スコラのラテン語 « ecceitas » から十六世紀末に作られた語で、このラテン語は 、« ecce » (「ここに...(がある)」)という副詞を語源としている。 « eccéité » は、「あるものが具体的に今ここにあること、あるいはそれを可能にしている原理」を意味している。
 因みに、二十世紀半ばにこの語をハイデガーの « Dasein » の仏訳として再利用する試みがなされたが、不成功に終わっている。今日、ハイデガー研究者であるなしを問わず、 ハイデガーの « Dasein » を話題にするときは、このドイツ語をそのまま訳さずに使うのが一般的である。
 « eccéité » の日本語訳としては、『小学館ロベール仏和大辞典』に、「此(これ)性、個性原理、是態(ぜたい)」という三つの訳語が挙げてある。いずれも一長一短といったところで、これらのうちのいずれを採用するかに迷う。暫定的に、上に示した意味で使うという前提の下、「このもの性」と訳しておくことにする。
 上掲の引用箇所およびその前後で提起されているのは、ある物が「このもの」という個体として成立するのはどのような契機においてなのかという問題である。一本の木あるいはそれから切りだされた材木を例として、それが「今ここにあるこのもの」と成るのはどのようにしてなのかという仕方でこの問題がここで具体化されている。
 ここで言われていることを理解するのに、私たちは特に哲学的知識を必要としない。それどころか、このような「このもの性」の経験は、私たちの日常生活あるいは仕事の中でほとんど日々生きられているという意味で、私たちはすでに「このもの性」を具体的に分かってしまっている、とさえ言うことができる。
 山に生えている一本の木が、その山の所有者でその木を周囲の他の木ととも製材業者に売ろうとしている山林所有者、その木を実際に植林して売れるようになるところまで育てた植林者、その木を買って製材化する製材業者、その製材化された材木を使って家を建てる大工や家具を作る職人など、一本の木に対する関わり方は同じではない。その関わり方ごとに「このもの性」も変わってくる。この一本の木が「このもの」になるのは、その物と人間との関わり方によって規定されており、木それ自体だけで「このもの性」を成り立たせることはできない。
 このような自明とも言える「このもの性」をなぜことさらに問題化しなくてはならないのか。それは、「今、ここに、このものがこのようにある」という経験の根源性を古代ギリシアの質料形相論に淵源する哲学的概念装置が覆い隠してしまい、この根本経験に対してもともと二次的・副次的・派生的なものでしかない諸概念によって私たちの思考が限定されてしまっていることを徹底的に批判するためである。