内的自己対話-川の畔のささめごと

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実体と様態とは同じ存在レベルにある ― ジルベール・シモンドンを読む(72)

2016-05-16 00:00:00 | 哲学

 昨日の記事で見たように、エピクロス派の立場においては、唯一の真の関係は、他なるもの・外なるものからまったく切り離された人間の自己自身に対する関係だけであり、ストア派の立場においては、人間と宇宙との関係だけである。
 しかし、このような帰結をもたらした自然学は、最初からあまりにも倫理的な要請のみによって動機づけられており、その結果として、これらの古代哲学派においては、根本的な物理的個体そのものの探究が不毛なままにとどまってしまった。
 このような不毛さから自然の探究を間接的な仕方で救うことになるのが、キリスト教道徳思想である。倫理学に非物理的な根拠を与えることによって、キリスト教道徳思想は、物理における個体の探究から道徳的原理の基礎づけという性格を取り除くことで、物理的探究を倫理学的要請から解放したのである。
 エピクロス派とストア派における自然学と倫理学との関係から、キリスト教道徳思想が両学の分離に間接的な仕方で貢献したことまでの過程を概説するシモンドンの史的叙述は、そこからいきなり十八世紀末に飛ぶ。
 中世まるごとと近代の前半をすっ飛ばしてしまうのは随分乱暴な話ではあるが、それは、十八世紀の終わりになってようやく、物質の非連続性、異質な物質間関係、個体とその環境との関係等が自然科学の諸分野で考察の対象になってくるというシモンドンの科学史観に拠る。この方向での科学的探究が、粒子をある場に結びつけられたものとする物理的世界像に到る。そこに到って、相互的な関係にある粒子群によって構成されているものの構造の変化をエネルギー・レベルの変化という尺度で計測することが可能になった。
 この科学的世界像の転回にシモンドンが特に注目するのは、関係が存在と同等の価値を有すること、関係が存在に単に付随するだけの偶有的なものとしてではなく、存在そのものの本来的な様態であることが、この転回によって認識可能になったからである。
 このような新しい視角から見るとき、物理的個体において、実体と様態とは同じ存在レベルにある。実体とは、様態の安定性のことであり、様態とは、実体のエネルギー・レベルの変化のことに他ならない。