内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清における哲学と宗教との関係 ― 歴史の中において歴史を貫く絶対性を探求する

2017-07-05 12:31:15 | 読游摘録

 近角常観が大きな影響を与えた青年学徒たちのうち、後に哲学の分野で名を知られるようになった主な人物として、岩田氏は、三木清、谷川徹三、白井成充、武内義範の四名を『近代仏教と青年』第一二章「宗教と哲学―三木清の宗教哲学」の冒頭で挙げている。
 そのタイトルからもわかるように、その章での主たる考察対象は三木清である。岩田氏が特に三木清を取り上げる理由は、三木は、常観の説教を学生時代に聴き、そのことを生涯忘れることはなかったが、その常観への関わり方は、当時の知識人青年において典型的であること、そして、これまで十分に理解されてこなかった三木の思索の基本的な特徴を、常観との関係を念頭におくことで見通すことができることにある。
 この視角から三木のテキスト群を通時的に読解する作業を通じて、三木独自の宗教哲学の特徴を明らかにすることが同章の目的とされている。それは、取りも直さず、常観を視座におくことで見ることができる、近代日本の思想史の新たな一面を提示することにほかならない。
 三木の哲学的思索の全体を一つの宗教哲学の展開・深化として捉えるという試みは、これまでの三木研究にはほとんど見られない独自なアプローチである。今の私にはその妥当性を論じうるだけの準備ができていないからその評価には立ち入らないが、多くの三木研究者にとって難題の一つである、『構想力の論理』と遺稿「親鸞」との関係の理解について新しい光を投じていることは間違いない。
 そして、その三木の親鸞論が武内義範の『教行信証の哲学』の親鸞理解の枠組みを踏襲しているという指摘はきわめて重要である。
 武内の解釈によれば、親鸞は、正像末史観に三願転入の根拠を求めることによって、宗教的回心の論理を個人の内的世界の問題に還元せず、歴史的世界との動的連関の中で捉えた。三木は、この解釈を受け入れている。
 同じく武内によれば、救済には絶対者の側からの働きが決定的な位置を占める、その際に重要なのは、正像末史観の表裏相即する浄土教史観である。この二つの史観の表裏相即ということも武内独自の親鸞理解であり、三木はこれもそのまま受け入れている。
 このような二つの史観の相即性を常観が明示的に主張しているわけではないことを認めた上で、岩田氏は、常観門下の武内の親鸞理解に三木が自身の問題意識に呼応するものを見出し、「常観が十分に哲学的に吟味していない情熱的な説教や、「求道」という実践的概念で表現したことを、三木は哲学的に錬磨していった」と見なしている(岩田前掲書、266頁)。