内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

なぜ人は自分自身について「真実」を語らなくてはならないのか ― ミッシェル・フーコー講演集『自分自身について本当のことを言うこと』

2017-07-08 18:02:15 | 哲学

 ミッシェル・フーコーが1982年にトロントのヴィクトリア大学で行った一連の講演とそれと並行して行なわれたセミナーとの記録 Dire vrai sur soi-même, Vrin, coll. « Philosophie du présent » が今年の三月に出版された。同じ叢書の中のフーコー未公刊講演集シリーズ « Foucault inédit » の第四冊目である。
 このトロントでの講演とセミナーは、哲学を専攻する学生や哲学研究者を対象としたものではなく、記号学の研究者や学生たちを対象に行われたものである。講演やセミナーのはじめでフーコーはそのことについてのいささかの戸惑いを吐露している。
 講演の基になる原稿は仏語で書かれ、おそらくヴィクトリア大学の学生がそれを英訳し、それにまたフーコーが手を入れた英語版が講演で実際に発表された原稿であると本書の編者たちは推定している。講演は六回行われたが、第二回目以外は録音されておらず(しかも録音状態は不良)、本書に収録された仏語版テキストと実際に英語で発表された講演との間の異同については確認のしようがない。第六講演は、その原稿さえ保存されていない。
 本書には、第一回目から三回目までの講演に関しては、フーコー自身が予め準備した仏語原稿が収録されている。それを補完するように、第二回については録音からの起こした英語原稿の仏訳、第三講演については英語原稿の一部の仏訳が付加されている。それに対して第四・五講演に関しては、きわめて不完全な英語原稿しか残されていない。本書に収録されているのは編者たちによるその仏訳である。
 それに対して、四回行われたセミナーの方は全部録音されており、その音源からできるだけ忠実に起こされた英語原稿を基にした編者たちによる仏訳が本書に収録されている。このセミナーのフーコー自身の仏語原稿は残されていない。このセミナーは、講演で述べられたテーゼを裏付けるためのテキスト読解を主な内容としている。
 フーコーは、本人の弁によれば、けっして英語が得意なわけではなく、セミナー第一回目のはじめに、フランス語をよく解さない学生たちに向かって、「私が子供じみたフランス語を話すよりも、下手な英語で話すほうがいいか」と聞いたりしている。実際、学生たちの要望通り、フーコーは英語でセミナーを行った。その仏訳を通じてでも、学生たちとフーコーとの生き生きとしたやりとりは伝わって来る。
 第五回講演については、先にも述べたように、きわめて不完全な英語原稿しか残っておらず、編者たちによるその仏訳が本書に収められているだけだが、これら一連の講演とセミナーにおける中心的な問い(それは、1970年のコレージュ・ド・フランス開講講義以降、とりわけ1980年1984年の死に至るまで、フーコーにとって最も重要な問いの一つでもある)が端的な形で提示されている。

Pourquoi voulons-nous connaître la vérité ?
Pourquoi préférons-nous la vérité à l’erreur ?
Pourquoi sommes-nous obligés de dire la vérité ? Quelle est la nature de cette obligation ?

なぜ私たちは真理(真実)を知りたいと望むのか。
なぜ私たちは誤謬(過ち)よりも真理(真実)を好むのか。
なぜ私たちは真理(真実)を言う義務があるのか。この義務の本性はどのようなものなのか。

 しかし、これらの一連の問いは真理の諸条件やその内在的整合性を問うことを目的とはしていない。フーコーの問いは、なぜ私たちは真理(真実)を欲するのか、なぜ私たちは真理(真実)を言うという義務を受入れるのか、というところにある。