内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

遙かなるヴァカンス、あるいは夏休みの哲学 ― 歴史家的思考についての批判的考察

2017-07-15 19:27:57 | 哲学

 九月からの新学年の準備として七月中にやっておくべきことがまだいくつかあり、今月末からの東京での五日間の集中講義の準備もあり、まだまだまったく夏休みどころではありません。まわりの空気はもうすっかりヴァカンス・モードなのに、どうして私だけこうなの、悲しい... などと愚痴っている暇さえありません。
 というのはやはり言い過ぎで、それくらいの暇はあるばかりでなく、時には息抜きにドライブしたり、サイクリングしたり、レストランで食事するくらいの時間はあります。それに、日課の水泳も、故ヘルムート・コール元ドイツ首相の追悼行事が欧州議会で挙行された七月一日にいつものプールが臨時休業だった後は、今日まで二週間毎日続けています(なあんだ、結構暇あるじゃんなどと仰られませんように)。
 さて、普段の講義の準備、研究発表、学内外の雑用がないこの時期だからこそ実行できる思考モードがあります。哲学に夏休みはありませんが、夏休みの哲学はあるのです。それはどんなものかというと、ある基礎的問題に関して集中的に関連文献を読み、今後の講義・演習・研究発表等で考察・検討するであろう個別的諸問題をその上で考えるべき思考の土台を固める作業です。
 この夏のテーマは、歴史家的思考と歴史的事実についての哲学的考察です。フーコーを読んでいるのもそのためですが、その他の文献として今机の上に積まれているのは、レイモン・アロン、ラインハルト・コゼレック、ミッシェル・ド・セルトー、ジャック・ル・ゴフ、ジョルジュ・デュビ―、ピエール・ノラ、フェルナン・ブローデル、アンリ=イレネー・マルーなどの著作です。それらを読んでいると、そこに引用されている文献にもちょっと目を通さねばと、いくら読んでもきりがないのですが、もちろんそれらすべてを通読するわけではなく、中には背表紙を眺めているだけ、なんていうのもあります。それでも、それらの本が机の上のいつでも手の届くところにあることが、精神的な重圧として迫ってくるばかりでなく、読み続けるための心の支えにもなっています。
 今回これらすべての文献を読んでいくためのいわば道案内役になっているのが、拙ブログの一月二十七日の記事で紹介した Nikolay Koposov, De l’imagination historique, Éditions EHESS, 2009 です。
 本書の考察対象は、歴史家に固有な思考です。歴史についての思考でもなく、歴史哲学でもないのです。より詳しく言えば、歴史家がまさに歴史家として仕事をしているとき、つまり、「歴史的事実」を「実証的に」構築しているとき、その作業が無意識のうちに前提している基礎概念、思考様式・世界像が本書の考察対象です。これらの考察対象は、歴史家たち自身によってそれらに対する反省的思考が意識的にかちゃんと自覚されないままに排除されているからこそ、歴史家的思考を根本的に問い直すために批判的に検討されなくてはならないと自身歴史家である著者は考えているのです。
 1960年代のフランス社会史を二分した歴史的カテゴリーに関する議論を出発点として、多数の大歴史家たちそれぞれの立場を検証しながら、上記の対象についての細密な考察が展開されています。固有名詞に関しては、言語哲学・分析哲学の分野での同問題のかなり専門的な議論を援用しながら、相当に込み入った分析を行っていたりと、全体としてかなりタフな内容で、けっして読みやすい本ではありません。
 しかし、歴史とは何か、という根本的な問いは、歴史家にだけ関わりのある専門的な問題ではなく、哲学者たちが歴史的事実から離れて概念的に論ずればよいだけの純理論的な問題でもなく、歴史の中に生きる私たちすべてに関わりのある問題である以上、私もまたこの問題を避けて通ることはできません。重く大きな問題ですが、背負い甲斐のある問題でもあると言うことができます。
 この問題を、なかば歴史家たちの意に反して、徹底的に考えていく道程の一つを、歴史家の社会的責任において、本書は勇敢に提示しているのです。