トロントでの第四講演では、このローマ帝政期の自己関係に、四・五世紀のキリスト教世界に現れる最初の修道的共同体内に見られる自己の解釈学が対置される。
古代末期から中世初期に現われるこの新しい主体形成の様態を規定するために、フーコーは、二つのタイプの禁欲的態度を区別する。「真理志向 truth-oriented」型と「現実志向 reality-oriented」型との二つである。
真理志向型の禁欲的態度は、古代社会における自己の文化に特徴的であり、その目的は、真理の探求とその獲得・吸収を通じて、主体が自分自身に対して所有と支配の関係を確立することにある。このような目的の性格を、フーコーは、「エトポエティック éthopoétique」と呼ぶ。プルタークの êthopoiêsis に依拠して用いられたこの語は、「道徳的態度を形成し、変容させる」というほどの意味である。そして、自己自身に対する所有と支配の関係の確立によって、主体は、世界に立ち向かう備えができる。この禁欲的態度において、真理は目的であり且つ手段である。フーコーは、この態度を「真理志向」的と呼ぶ。
古代社会に特徴的なこのような真理志向型の禁欲的態度に対して、初期キリスト教共同体内に形成されていく現実指向型の禁欲的態度は、「メタノエティック métanoétique」な機能を有している。ギリシャ語 metanoia を語源とするこの語は、「魂の全面的な方向転換」を意味する。というのも、そこでの目的は、自己自身を変容させることによって、この世的なものを放棄し、別の世界と永遠の生へと至ることだからである。このキリスト教的禁欲は、一つの現実から別の現実への、死から生への、一種の「通過儀礼」であり、それは真正の生への現実的な途である見かけ上の死を通じて実行される。この意味で、それは「現実志向」的だと言われている。
規定の仕方にいささか無理があるように思えるこれら二つの表現「真理志向」「現実志向」は、以後、フーコー自身によって再び用いられることはなかった。
それはそれとして、古代社会における自己の文化と初期キリスト教共同体における自己の解釈学との間に、西洋精神史における自己の自己に対する関係の形の決定的に重要な変化をフーコーが見ていることは確かである。