内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

1960年代に現象学が日本古典研究に与えた衝撃の証言

2019-01-15 23:59:59 | 講義の余白から

 明日から古典文学の後期の授業が始まる。前期は、昨日言及した歴史の授業と同じような理由で、今年度限りの移行措置として、中世文学史と近世文学史とにそれぞれ半分づつの時間を割いた。昨年までのカリキュラムでは、二年次に上代文学史と中古文学史がそれぞれ前期と後期にあったので、今年の三年生はすでにそれらを学習済みのため採られた措置である。来年度からは、通年の古典文学の講義の中で上代から近世まで通覧しなければならなくなる。たとえ断片的であれ、原文に触れさせるという方針は維持するが。
 今年度の後期は、そういうわけで、通史的アプローチとは異なったアプローチを採用する。毎回、一話完結式で一つのテーマを取り上げる。明日の講義は、「神話と文学」と題して、古代における両者の関係について考察する。参照テキストは、西郷信綱の『日本古代文学史』(岩波現代文庫、2005年)。本書は、岩波全書の一冊として初版が1951年に刊行され、同改稿版が1963年、同時代ライブラリー版が1996年と、息長く読みつがれてきた名著である。ところが、最新版である現代文庫版は、現在版元品切れ。残念なことである。もっとも現代文庫版は、古本市場によく出回っているようで、私が持っているのも状態のよい古本である。
 岩波書店のサイトの本書の紹介ページには、「T・H」とイニシャルが末尾に付されたかなり詳しい紹介文が載っていて、その中に初版の「はしがき」(現代文庫版では割愛)の一部が引用されているなど、本書についての貴重な情報源の一つになっている。
 明日の授業では、本書の「序 古典とは何か」のうち、最初の二節をじっくりと読みながら、古代における文学の誕生の場面にいかにアプローチするかという方法論的な問題を考察する。
 西郷信綱は、60年代に英国に渡り,ロンドン大学でイギリス社会人類学及び現象学の方法を学んだこともあり、国内だけに生息する「自給自足」型の国文学者たちとは異なり、その著作はとても骨太な理論的構想力において際立っている。ただ、まさにそれゆえに、いささか強引とも思われる概念化が気になる箇所もある。そのあたりに注意を払いつつ読みたい。
 名著『古事記の世界』(岩波新書、1967年)の「あとがき」には、同書執筆の際に深く学んだ三つの源泉が挙げられている。第一の源泉として、本居宣長。これは至極真当。第二に、当時の英国の社会人類学。ここまではさほど驚かない。その同じ段落には、レヴィ・ストロースの構造人類学への言及もあるが、本書の考察対象が神話世界であってみれば、これも得心がいく。ところが、第三の源泉として、メルロ=ポンティ(西郷の表記は「メルロ=ポンチ」)が挙げらているのを初めて目にしたときは、仰天した。『知覚の現象学』との出会いを自身にとっての「事件」とまで言っている。その「衝撃」を語っている箇所を引用しておこう。

とにかくこの本に出くわし、私は、哲学が個別の学に先行しそれを基礎づけるものであること、つまり個別の学が私たちのひとり合点しているようには自律的なものではないゆえんについて、今さら愕然と目を見張ったのです。そしてそのふかい衝撃が、古典研究という一見縁もゆかりもなさそうな分野にまでひたひたと浸透してくるのを経験しました。縦糸と横糸は多少用意されていたにしても、それをどんなぐあいによりあわせ、どういう模様を織ったらいいのかを根源的なところで教えてくれたのは、この本でありました。(215頁)

 1960年代、現象学の衝撃波がどこまで届いたのかの一つの証言がここにある。