内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

ただ一つの真理を発見するための謙譲の精神

2019-01-13 18:26:34 | 読游摘録

 昭和二十三年とその翌年に、文部省は『民主主義』という上下二巻の中高生向けの教科書を編纂・刊行し、この教科書は1953年まで中学高校で使用された。その復刻版が1995年に径書房から出版され、2016年には幻冬舎から短縮版が出版されている。両者ともに現在も流通しているようだが、昨年十月に角川ソフィア文庫の一冊としてその完全版が出版された。私の手元にあるのはこの最新の完全版である。
 著者として文部省とクレジットされているが、実のところは当代の経済学者や法学者たちによる共著である。この書物の成立事情については、内田樹の解説に詳しい説明がある。本書は、占領下、「GHQ の指示に基づいて、日本国憲法の理念を擁護顕彰し、民主主義的な社会を創出していゆくという遂行的課題を達するために、敗戦国の役所が、子どもたちを教化するために出版した」(内田樹「解説」447頁)。
 作成にあたって、執筆者たちは、当局による検閲を念頭に置いて書かざるをえなかった。内田樹は、それゆえ、この本を検閲という歴史的条件抜きに読むべきではないだろうと言う。「それによって文章はある種の「屈曲」を強いられていたはずである。その屈曲を補正することで、私たちはこの教科書を書いた人たちが敗戦国の少年少女たちにほんとうは何を伝えたかったのかについて推理することができるのではないかと思う」(448頁)。
 それはそのとおりだと思うが、内田自身、「何より「民主主義とは何か」を十代の少年少女に理解してもらおうと情理を尽くして書かれている文章の熱に打たれた」と述べているように、検閲という歴史的条件を括弧に入れて読んだとしても、本書は現在でも立派に通用する洞察に満ちている。言い換えれば、当時から現在に至るまでの70年の間に、日本はどれだけ民主国家として進歩したのだろうかという問いを今また私たちは問わなければならないということでもある。
 例えば、昨日の記事で問題にした寛容について、第七章「政治と国民」「五 政党政治の弊害」には、今日の政治家たちこそ謙虚に耳を傾けるべき見解が披瀝されている。

政党は、相手方の主張にもよく耳を傾け、正しい意見はすすんで採り入れるだけの寛容さを持たなければならぬ。特に、多数党は少数党の主張を重んじなければならぬ。多数によって少数を圧迫し、是非にかかわらず採決で勝利を獲得すれば、多数党の横暴となることを免れない。国民の禍福の分かれ道になる問題を、右からも左からも、上からも下からも見て、よく研究し、互の議論を重ねつつ、ただ一つの真理を発見してゆこうとする謙譲の精神があってこそ、花も実もある政党政治が行われうる。(166-167頁)

 寛容さも謙譲の精神も忘却した傲慢な愚人たちによって動かされている現代日本社会が民主主義の理念からどれだけ遠く離れてしまっているか、この一節を読んだだけでもよくわかる。しかし、ただ政治の悪口を言ってもはじまらないと、次の段落は注意を促す。

 しかし、これらのことの根本をなすのは、国民の良識である。政党は、国民の心の鏡のようなものである。国民の心が曲がっていれば、曲がった政党ができる。国民の気持ちがさもしければ、さもしい政党が並び立って、みにくい争いをするようになる。それを見て、政党の悪口を言うより先に、何よりもたいせつな国民の代表者に、ほんとうに信頼できるりっぱな人を選ぶことを心がけなければならない。国民がみんな「目ざめた有権者」になること、そうして、政治を「自分たちの仕事」として、それをよくするためにたえず努力してゆくこと、民主政治を栄えさせる道は、このほかにはない。(167頁)

 この段落には、近い将来に有権者となる中高生たちへの執筆者たちの切なる願いが込められているように私には読める。