内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内感に基礎を置く自我論から、〈外見〉へと自己を脱中心化するダンディズムへ

2019-01-24 19:01:10 | 哲学

 昨日の記事の『鏡の文化史』からの引用箇所のカギ括弧内の引用は、バシュラールの『水と夢』の一節である(L’eau et les rêves, Le Livre de Poche, p. 34)。『水と夢』には、ナルシスについてのきわめて興味深い分析が緻密に展開されているので、ナルシシズムを問題にする機会が訪れたときに立ち戻りたい。
 『鏡の文化史』を読み直しながらダンディー論をもう少し展開しておきたいが、その前に、原書の誤植を一箇所指摘しておきたい。

Avec la notion neuve de cénesthésie qui émerge à la fin du siècle, et rencentre l’idée du moi autour d’une structure neurologique capable de coordonner les pulsions du corps, il semblerait que la vue, créatrice d’illusions, perde sa position privilégiée et la cède aux perceptions des « sens intérieurs » régissant le psychisme (p. 177).

 下線を引いた « rencentre » というのは明らかな誤植である。邦訳者は、これを « rencontre » と取り、次のように訳している。

十八世紀の終わりに現れた新概念、体感は、肉体的欲動を調整できる神経構造の周辺で、自我という考えと出会う。(191頁)

 これでも意味が通らないわけではない。しかし、« recentre » の方が前後の文脈からしてより整合性が高いと私には思われる。動詞 « recentrer » は、サッカーでは「センタリング」のことである。より一般的には、「あるものを中心に置き直す」という意である。この動詞と読めば、「身体の諸欲動を調整できる神経構造を中心として自我論を再編成する」〈体感〉という新概念が十八世紀末に出現したことによって、視覚は「内感」にその特権的地位を譲る、という文意になる。つまり、視覚によって捉えられた鏡の中の外なる自己から、内感によって内側から直接把握された内なる自我へと、自我論の中心が移動した、ということである。
 しかし、ダンディズムは、この見えない内的自己への自我論の集中を今一度反転させることによって成立する。