内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

西鶴と芭蕉 ― 両者の間の迷いからはじまる学問研究

2019-01-11 23:59:59 | 講義の余白から

 廣末保の論文「西鶴と芭蕉――西鶴の浅ましく下れる姿」の初出は1962年、翌年『芭蕉と西鶴』(未來社)に収録される。後に『廣末保著作集』第三巻『前近代の可能性』(影書房、1997年)に再収録される。手元にあるのはこの版である。
 この論文を読んだのは、昨日の記事で話題にした古典文学前期末課題を出した後、年末年始の一時帰国中のことだった。この論文の意図は、期せずして、課題の意図とある点まで一致していることが確認できた。
 「芭蕉と西鶴」という提題は、両者いずれか一方への「耽溺型」の、よくいえば「主体的」な研究者にとっては、芭蕉をとるか西鶴をとるかの二者択一をせまる。しかし、廣末保によれば、「この二者択一型は、本当の意味で芭蕉も西鶴もとらえていない場合がある」(217頁)。なぜなら、両者の文学には、「その文学をなりたたしめている要因のなかにかなり重要な共通項があり、一方を完全に否定しておいて、他の一方に耽溺するということは不可能だからである」(同頁)。
 他方を完全に否定しておいて、もう一方を肯定するというやり方が、なんの抵抗もなく実行されているとすれば、それは「芭蕉でない芭蕉を見ていることになる」と廣末は考える。西鶴を肯定し、芭蕉を否定する場合も、それでは西鶴でない西鶴を見ていることになる。
 では、自分の「主体的」な選択を括弧に入れて、禁欲的に両者を比較する「無欲な」客観主義に徹するのが研究者の採るべき態度なのか。そうではない。二者択一でもなく、中立的な客観主義でもなく、どちらとも決めかねる迷いからはじめるほかないのではないか、と廣末は自問する。
 この迷いあるいは躊躇いのうちにおかれているとき、第三の観点を導入することが論点の明確化に貢献することがある。この第三の観点をどこに置くか。これが私が学生たちに出した課題であった。
 歴史的整合性という点からは、近松門左衛門を召喚するのがもっとも妥当であろう。しかし、そのような縛りをはずし、「文学とはなにか」という問題そのものを、「西鶴と芭蕉」という二項対立を維持しつつ、その対立を相対化し、より立体的に考えるうえで有効な観点をそれこそ主体的に導入すること、それを私は学生たちに求めた。
 このような途方もなく高度な要求を突きつけられて途方に暮れてしまったと正直に感想を書いてきた学生も確かにいた。しかし、これは知識の正確さや量を問う問題ではなく、史実に関する情報に基づいて知的想像力をフル稼働させることを要求する「チャレンジ」なのだとこちらの意図をよく理解してくれた学生たちが多数を占めた。
 論文としての出来不出来はもちろんある。力量の差も否定できない。しかし、それぞれが自分の頭で考えようとしている。この「ありえない」チャレンジを受けて立ち、歴史の中に自らを書き込み、迷いながら考え続ける努力をした学生たちに、私は称賛の拍手を送りたい。