渡辺京二の『幻影の明治 名もなき人びとの肖像』(平凡社同時代ライブラリー2018年、同社刊初版単行本2014年)の巻末に収められた新保裕司との対談の中に今日の記事のタイトルに掲げた表現が出てくる。
この表現は、最近の傾向として優れた歴史叙述が日本で貧弱になっていることへの懸念を新保裕司が表明するところに出てくる。それに対して、渡辺京二は次のように応じている。
一つの透徹した自分自身の歴史哲学というか、「人間とは何か」ということについての見極めなどは持たずに、面白く、華やかな歴史物語を書く方はいらっしゃいますが、新保さんがおっしゃるように、歴史叙述は最高の知性がやるべきだということには日本はなっていない。しかし、ヨーロッパには、そういう伝統がありますよね。
そのような優れた歴史叙述には何が必要なのか。それは何よりも先ずエピソードの拾い方だという。まず、面白いエピソードを見つけ出す鑑識眼がなくてはならない。しかし、拾い集め、取捨選択したエピソード群をただ羅列したところで歴史叙述にはならない。それらをうまく繋ぎ合わせて、ある生き生きとした歴史像がその時代の臨場感の中に結ばれるようにする。そして、それを優れた文章に仕上げることができて、はじめて良い歴史叙述は成立する。
渡辺京二は、このような手法をホイジンガの『中世の秋』やブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』に習ったという。さらには、マルク・ブロックの『封建社会』のように相当に専門性の高い本でも、それが通読可能なのは、その文章が歴史叙述になっているからだという。
歴史学者による専門家のみを対象とした歴史研究書とも小説家による大衆受けする歴史物語とも違う、最高の知性の表現としての歴史叙述を担うのが真の歴史家の仕事だということになるのだろう。