内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夏休み日記(6)「老人」になることが難しい今の時代に、中途半端で先行きの見えないままに漂う日本のオジさん

2019-08-08 22:53:45 | 読游摘録

 五月十六日に亡くなられた文芸評論家の加藤典洋氏の生前最後の出版書は、講談社文芸文庫から同月に刊行された『完本 太宰と井伏 ふたつの戦後』であろう。本書の後書「文芸文庫版のためのあとがき」は、死の二ヶ月前の最後の入院中の三月に執筆されている。これが絶筆であるかどうかは私にはわからないが、生前の最後の文章の一つであることは間違いない。
 この文芸文庫版の解説は、加藤氏自身の願いによって、生前一面識もなかった與那覇潤氏が執筆している。その依頼の理由を、この「ブリリアントな若い人」が、太宰や井伏について書かれた本書を、「先入観なしに読んで、どんな感想を持ってくださるかに関心があった。この人は、病気をくぐって、その思考を深めることのできる人だということを、氏の近著『知性は死なない 平成の鬱をこえて』を読んで得心したからにほかならない」と加藤氏は記している(209頁)。ちょうど與那覇氏のその本を読み終えたところだったので、加藤氏の遺著も読んでみようと思った。
 「文芸文庫版のためのあとがき」の最後の二頁は、これからの時代を担う「若い人」へ宛てられた遺書のようにも読める。しかし、それは死を予期し、達観した人の人生観というようなものではなく、「若い人」に向けられた「社会的人間」としての「老人」からのメッセージというべきかも知れない。その一部をここに引いておきたい。

そしていま、自分で病気を経験し、ようやく私は一人の「老人」になることができたと思っている。太宰、三島とは無縁の境涯というほかない。いまの時代「老人」になるのは難しい。「老人」とは世を捨てることではない。「若い人」を助ける「一歩身を引いた」、「自分の分限を知った」社会的人間のことである。
 これからはしっかりと「若い人」に場所を譲り、そういう人に活躍してもらう助力をすることが「老人」たる自分の役割であると思っている。その意味でも、今回の本を出せること、その解説を若き與那覇潤さんにお引き受けいただけたことを幸運と感じている。(209-210頁)

 こんなふうに「若い人」にバトンを渡せる「老人」になることは、いまの時代、確かにとても難しい、と思う。私は年齢的にはほぼ老人であるが、加藤氏が言う意味での分限をわきまえた「老人」にはほど遠く、意気軒昂たる「壮年」はすでに遠い過去の話である。この中途半端で先行きの見えない立場はとても居心地が悪い。ただ、おずおずと、もうしばらく「現役」でいさせてくださいと「若い人」たちにお願いするばかりである。