発表原稿の隠し味の第二は、三木成夫の『生命とリズム』(河出文庫、2013年)から抽出されたものである。本書には、生命を司るさまざまなリズムと宇宙を統べるさまざまなリズムとの関係についてとても示唆に富んだ考察が平易な言葉で述べられている。初出は、雑誌に掲載された短い論文や講演原稿あるいは要旨からなり、それらが「Ⅰ 生命とはなにか」「Ⅱ からだと健康」「Ⅲ 先人に学ぶ」「Ⅳ 生命形態学への道」の四つの章に分けられている。以下は、第一章の「人間生命の誕生」と題された文章の「人間の生命形態―植物・動物との比較」という小見出しが付けられた節からの引用である。
合成能力の備わった植物が植わったままで生を営むのに対し、この能力に“欠”けた動物は、“動”き廻って草木の実りを求めることになる。この文字通り“欲動”的な生きものの動物に「運動と感覚」という双極の機能が、光合成能の代償として備わったことは、これまた自然のなりゆきと言わねばならないであろう。(27ー28頁)
植物はしたがって、完全に無感覚・無運動の、言ってみれば覚醒のない熟睡の生涯を永遠に繰り返してゆく生きものということになるのであるが、この真夏の太陽も見えない、春の嵐も肌に感ずることのない生物が、しからばいかにして歳月の移り変わりを知ることになるのであろうか? それはこの植物を形成するひとつひとつの細胞原形質に「遠い彼方」と共振する性能が備わっているから、と説明するよりないであろう。巨視的に見ればこの原形質の母胎は地球であり、さらに地球の母胎は太陽でなければならない。
したがって、この原形質の生のリズムが、例えば太陽の黒点のそれに共振することがあるとしてもなんら不思議とするにはあたらないであろう。それは心臓から切り離された一個の心筋細胞が培養液の中でかつての心拍のリズムをもののみごとに復活させるのと少しも変わらないのであるから。細胞原形質には、遠くを見る目玉のない代わりに、そうした「遠受容」の性能が備わっていたことになる。これを生物の持つ「観得」の性能と呼ぶ。植物はこのおかげで、自らの生のリズムを宇宙のそれに参画させる。われわれはその成長繁茂と開花結実の二つの相の明らかな交替が日月星辰の波動と共鳴しあって一分の狂いもないのを見るであろう。こうして植物の生はこの大自然を彩る鮮やかな絵模様と化す。
さて、これが動物ではどのようになっているのか? その原形質もまた宇宙のリズムに乗って自らの食と性を営んでゆくのであるが、ここではさらに、その時々の原形質の欠乏を満たす糧を、それがたとい五感の及ばぬ遥か彼方のものであっても、それを的確に観得し、それに向かって運動を起こす。つまり成長繁茂・開花結実という生過程にのみ結ばれた植物の「観得」の性能は、動物ではさらに餌と異性に向かう個体運動(locomotion)にまで結ばれることとなる。かれらが日月星辰のリズムに乗って、ある時は大空を渡り、ある時は急流を遡り、それぞれ彼方の見えぬ「食と性」の目標に向かってあたかも生磁気に牽きよせられるがごとくに進んでゆく──いわゆる“鳥の渡り”とか“魚の産卵”に見られる動物の「本能」とは、まさにこの「遠観得」の性能に依存するものであることがここで判明した。
さて、動物の観得はこれだけではない。食と性の目標がやがて運動器とともに開発された感覚器の窓を通して直接に観得されることとなり、こうした感覚・運動を営むいわば「肉の体」の出現によって動物界ではひとつの意味を持った「外界」が種ごとに形成されることとなるのであるが、それは人間にいたって一挙に無限の「世界」にまで拡大される。かれらの五感を通して入ってくるもの、それは食と性に関係したものだけではない。そこでは、森羅万象のひとつひとつがそれぞれの“すがたかたち”を表して人びとの「心情」を揺り動かすのであるが、実はその時、五感に差し込むそれら諸形象の中に、われわれは、あの植物原形質が観得した「遠」の“おもかげ”を現実に見出すことができるのである。(28-30頁)
長い引用になってしまったが、その中に出てくる「遠受容」「観得」「すがたかたち」「おもかげ」などの言葉にはとても豊かな生命思想が包含されている。