内的自己対話-川の畔のささめごと

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内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(七)最終回

2020-01-05 00:00:00 | 哲学

よくよく考案して思ふに、幽玄の位は生得のものか、長たる位は功入たるところか。心中に案を廻らすべし。

よくよく考えてみると、幽玄の位は生れつきのものであろうか。また長のある位は修行の年功の積る結果であろうか。心中でなおよく考えてみるがよい。(表章訳)

 これが「位の差別」の条の締めくくりである。「位の差別」の基準とその根拠について最終的な結論を述べるのではなく、幽玄の位の生得性や稽古の経験的有効性について読み手である役者自身に問いを投げ返すようなこの物言いは、昨日まで読んできた同条に見られる議論のゆらぎが当時の世阿弥自身の思考のゆらぎでもあったことを私たちに推測させる。しかし、この「ゆらぎ」をめぐっても解釈が分かれる。
 表章は、頭注でこの箇所について「世阿弥が論を整理しきれなかったことを暗示する」と指摘している。竹本幹夫も、同条の解説で、「言語化の過程にある、未完成な面のある位論」であることを認めている。しかし、続けて「もっとも基礎的かつ根底的な認識が示されている」と評価してもいる。『風姿花伝』の芸位論の根本は後の能楽論でも揺るがないとみるか、『風姿花伝』以後に修正と深化があると見るか、ここも解釈が分かれるところだ。
 芸位というものは、目利きの眼には一目瞭然であるとしても、そうでない者には外から何らかの基準に照らして「客観的に」判定できるようなものではなく、役者自身にとっては目標として「対象化」して掲げることができるようなものでもないのであってみれば、そもそも「位の差別」を言葉によって規定しようとする試みそのものに原理的な困難があると言わなくてはならない。この困難が多様な解釈を生じさせる主因である。
 後に『九位』において世阿弥の芸位論は体系化されるが、その体系化を支える論理については、『九位』の本文に即して別途考察されるべきであろう。『風姿花伝』第三問答条々中の一条「位の差別」に即して解釈の可能性・多様性・整合性の問題を論じた今回の連載は今日をもって終わりとする。