元日早朝から、年を跨いでの連載を続ける。昨日の記事に引用した原文を再度引く。
また、生得の位とは長(たけ)なり。嵩(かさ)と申すは別のものなり。多くの人長と嵩とを同じやうに思ふなり。嵩と申すは、ものものしく勢ひのある形なり。またいはく、嵩は一切にわたる義なり。位、長は別のものなり。たとえば、生得幽玄なるところあり。これ位なり。しかれども、さらに幽玄にはなき為手の長あるもあり。これは幽玄ならぬ長なり。
市村訳、小西訳は、「位・長」を一つのユニットと考え、「位・長」が嵩とは違うという解釈を取っている。この解釈においては、嵩とは区別された〈位・長〉という一カテゴリー内における位と長との区別が問題となる。言い換えれば、同類における種差がここでの問題だということである。位は所与としての天稟であり、長は経験における到達点である。つまり、位と長とは、本条の「答」の冒頭の数行で区別されていた二つの位、すなわち天稟に恵まれた少年の役者におのずから顕現する位と稽古の結果として段階的に到達される位とにそれぞれ対応する。
論理学的語彙を使ってこの解釈の意図を説明すれば以下のようになる。
類としての〈位〉とその下位概念である種としての「位」とを階層的に区別し、この下位概念としての「位」の種差を「生得幽玄」とし、同じく下位概念の「長」の種差を「非幽玄」とすることで、両者の区別と関係を論理的に整合性のある仕方で規定しようとしている。
しかし、これだけでは、この規定と「生得の位とは長なり」というテーゼとの関係を整合的に説明できるのかどうか不明なままである。ところが、両訳とも、「これは幽玄ならぬ長なり」という一文は「直訳」するだけで、この不明点についての合理的解釈を訳文に織り込むことを回避している。