内的自己対話-川の畔のささめごと

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内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(五)

2020-01-03 00:00:00 | 哲学

 『風姿花伝』第三問答条々中の「位の差別」の条の続きを読もう。

また、初心の人思ふべし。稽古に位を心がけんは、返々叶ふまじ。位はいよいよ叶はで、あまさへ稽古しつる分も下がるべし。所詮、位、長とは生得のことにて、得ずしては大かた叶ふまじ。

また、初心者は次の点に注目すべきである。稽古に際して位そのものを目標とするのは、まったくもって不可能なことだ。位が上がることはもちろんあり得ないし、そればかりか、これまでの修行で獲得してきた芸力も低下してしまうだろう。結局、位や長は、原則的には天分に属することで、生れつき獲得していない限り、おおよそは身につけることが困難であろう。(表章訳)

 位は、それ自体を目標としうるような対象化可能な実体でも状態でも基準でもない。これはおのずと顕現する生得の位については自明なことだ。では、稽古の積み重ねを通じて諸階梯を経て到達されるべき位についてはどうか。その場合、まだ身に備わってはいないものを目標化してそれを目指すことは、表現する身体に対してその目標を外在化させることにしかならない。結果として、それまでの稽古で到達された位より目標としての位は遠ざかり、かえって芸位は下がってしまう。だから、本来目標化しえない位をゆめゆめ目標化してはならない。
 ここまでは表面の文意を辿るだけであればさほど難しいことではない。ところが、生得的な位のない者を絶望させかねない一文がそれに続く。生得的に位をもっていない者が位を獲得するには稽古において多大な困難を乗り越えていかなくてはならないのはわかるが、生得幽玄のない為手にも獲得可能かと思われた長もまた、結局は生まれつきによる、と言われては、生得幽玄がなくても、それでもなお、と稽古に励んでいる者には取り付く島もない。
 市村宏訳は、「もともと位と長とは天性の事に属し、これを授からぬ者にはまず大抵身につけることは難しい」となっており、表訳とほぼ同意。竹本幹夫訳は、「もともと持っていない場合には、決して身に付くものではない」とまことにけんもほろろである。佐藤訳は、「つまるところ、位である長は生まれつきのことであって、生まれつきでなければ通常得ることができない」と、それなりに首尾一貫しているが、位ではない長もありうるのかのような含みを残した訳し方をしている点で他の訳と異なっている。
 小西甚一訳だけがはっきりと異なった解釈を訳文そのものによって示している。「結局、位や「たけ」は、おのずから身にそなわるもので、その理を自得しなくては、どうしようもなかろう。」つまり、ここでの問題は、後天的獲得が不可能な位や長の生得性のことではない、位や長の生得性を我が身において理解することが芸位の向上には不可欠だとの意に小西はこの一文を解している。確かに、生まれ持った「才能がなければ努力しても無駄であるのは、残酷ではあるが歴然たる事実で、世阿弥の認識もそうであった」(角川ソフィア文庫版竹本幹夫解説より)のならば、それをここで繰り返し述べたところで、稽古に励む才能ある弟子たちにとってはなんの益にもならない。