内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

査読について

2020-01-10 23:59:59 | 哲学

 最近、日本哲学関係の仏語論文の査読を依頼されることが多くなった。それだけ日本哲学に関する仏語論文の数が増えてきているということだろう。慶賀すべきことだと思う。他方、査読の引き受け手が少ないという事情もあるだろう。
 論文の内容によってはこちらにも大いに勉強になるから、大抵引き受ける。ほとんどの場合、論文執筆者も査読者も互いに匿名で行われる。私の意見だけで発表の可否が決まるわけではないが、肯定的には評価できない論文の場合、文言には特に慎重になる。
 学術誌に掲載される専門性の高い論文の場合、執筆者は読み手として同じ分野の研究者たちを主な読者として想定している。だから、彼らの間で既知のことは暗黙の前提として論文を構成する。査読者はそれらの既知事項を共有している専門家であることが望ましい。同分野の専門家が多数いる場合は、この条件を満たすことは難しいことではないが、そうではない場合は、かなり「畑違い」の論文が回ってきたりする。
 今二つの学術誌からそれぞれ一本ずつ論文の査読を依頼されているが、一つは西谷啓治の『宗教とは何か』を主な対象としており、一つは西田哲学に大きく関わるから、私が引き受けるのは順当だと言ってよいと思う。
 掲載される雑誌の性格とその主な読者によっても評価は変わってくる。哲学の専門誌であれば、当然議論の厳密さについての要求水準が高くなり、専門外の読者に理解できるかどうかはさして問題にならない。一方、日本研究全般を対象とする雑誌の場合、あまりにも専門性の高い論文は、たとえ優れた内容であっても、必ずしも太鼓判を押せるわけではない。そのへんの「匙加減」に気を使う。