内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

内的合理性をもった解釈が最良・最適な解釈とはかぎらない ―『風姿花伝』「位の差別」の条に即して(四)

2020-01-02 00:00:00 | 哲学

 佐藤訳は、「生得の位とは長なり」を大前提とし、一昨日つまり昨年大晦日の記事で引用した原文の後に出て来る「所詮、位、長とは生得のことにて」との整合性を重視し、「例をあげていえば、生まれつき幽玄(優雅)な修者がある。これは品格である。幽玄ではなく生まれつき長(高雅)である修者がいる。これも品格である」(98頁)と訳している。
 佐藤訳も、類としての〈位〉とその下位概念である種としての「位」との階層的区別を前提としている点では市村訳・小西訳と同じだが、「位、長は別のものなり」を「品格である長は別の辞である」と訳しているところに独自性あるいは特異性がある。つまり、ここでの長は、「位」(品格)と同格、あるいは〈位〉(品格)という上位概念に属するかぎりでの長と取れるように訳している点で市村訳・小西訳と異なっている。この一文の解釈としてはどちらも不可能ではない。この「両義的な」解釈に立って、佐藤訳は、生得幽玄という「位」と幽玄なき為手の長とを、類としての〈位〉に帰属する種としての「位」の二例と見なしている。
 つまり、長もまた「生まれつき」の位であることを前提とした上で、生得幽玄なる位と生得高雅なる位としての長という両者の種差を確保しつつ、どちらも生得の〈位〉(品格)に帰属するかぎりにおいて同等であるとする解釈を前面に打ち出すための工夫が佐藤訳には凝らされているということである。
 しかし、幽玄を優雅とし、非幽玄を高雅とする区別は不明瞭である。そもそもこの区別は何を根拠としているのか。原文中にはその根拠は見出し難い。優雅と高雅との区別は、種としての「位」である長にも生得性を認め、かつ生得幽玄としての位との種差を確保しなければならないという「論理的」要請ために、原テキスト外から半ば恣意的に導入されていると見なさざるを得ない。