内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(二)

2020-01-12 13:52:27 | 哲学

 眩い光の中に晒すのではなく、一点の灯明か蠟燭のあかりに底に沈ませることではじめて現成する存在の重みと美しさがあることを『陰翳礼讃』は教えてくれる。
 その全貌が一挙に光の中に顕にされることで、かえって隠蔽されてしまう存在の織地がある。その存在の織地はそれ自体で独立な実体として在るのではない。身体とは切り離された精神によって認識されるものでもない。
 ほのかな光の中で徐々にその姿を時間の経過とともに現すことによってしか表現されない存在の質がある。その質は、見るものとしてその場にいる私の身体によって生きられている時間の中で感じられるものである。それは、私の身体の感覚によって把握される外的な対象ではなく、私の身体によって生きられている時間の中でおのずと生成するものである。
 揺らめく光によって見え隠れする「ゆらぎ」も存在の質を成しているのであり、そのゆらぎを引き起こす微風も存在の織物に織り込まれている。

もしあの陰鬱な室内に漆器というものがなかったなら、蝋燭や灯明の醸し出す怪しい光りの夢の世界が、その灯のはためきが打っている夜の脈搏が、どんなに魅力を減殺されることであろう。まことにそれは、畳の上に幾すじもの小川が流れ、池水が湛えられているごとく、一つの灯影をここかしこに捉えて、細く、かそけく、ちらちらと伝えながら、夜そのものに蒔絵をしたような綾を織り出す。

 『陰翳礼讃』の中で最も美しい一節の一つだと思う。この「夜そのものに蒔絵をしたような綾」は、物理的現象によって引き起こされた感覚の単なる主観的な表象ではない。この綾は作家の眼によって内在的に捉えられたその空間の存在様態であり、この存在様態としての綾の内に作家の眼もいわば編み込まれている。西田幾多郎の言葉を借りれば、「物となって見」ている。
 画家が僅かな線描と色彩によって存在を或る様態においてカンヴァス上に励起するように、作家は事物に到来する存在様態を言葉のパレットを使って描き出す。