内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

もしメルロ=ポンティが『陰翳礼讃』を読んだとしたら―「陰翳の現象学」(三)

2020-01-13 12:26:26 | 哲学

 昨日引用した『陰翳礼讃』の「夜そのものに蒔絵をしたような綾」の一節を読むとき、私は『眼と精神』の次の一節を思い合わせないではいられない。

Quand je vois à travers l’épaisseur de l’eau le carrelage au fond de la piscine, je ne le vois pas malgré l’eau, les reflets, je le vois justement à travers eux, par eux. S’il n’y avait pas ces distorsions, ces zébrures de soleil, si je voyais sans cette chair la géométrie du carrelage, c’est alors que je cesserais de le voir comme il est, où il est, à savoir : plus loin que tout lieu identique. L’eau elle-même, la puissance aqueuse, l’élément sirupeux et miroitant, je ne peux pas dire qu’elle soit dans l’espace : elle n’est pas ailleurs, mais elle n’est pas dans la piscine. Elle l’habite, elle s’y matérialise, elle n’y est pas contenue, et si je lève les yeux vers l’écran des cyprès où joue le réseau des reflets, je ne puis contester que l’eau le visite aussi, ou du moins y envoie son essence active et vivante (p. 70-71).

水の厚みを通してプールの底のタイル床を見るとき、私は水や水面の反射にもかかわらずそのタイル床を見るのではなく、まさに水や反射を通して、水や反射によって見るのである。もしもそうした歪みやまだら模様の照り返しがないならば、もしも私がそうした肉なしにタイル床の幾何模様を見るならば、そのときにはタイル床をあるがままに、あるがままのところに、すなわち、どんな同一的な場所よりも遠いところに見ることをやめてしまうだろう。水そのもの、水というあり方をした力、とろりとして煌めく元素、それが空間のなかにあると言うことは私にはできない。というのも、それは別の場所にあるわけではないが、プールのなかにあるわけでもないからである。それはプールに住んでいて、そこで物質化しているのであって、それはプールに含まれているのではなく、もしも糸杉の遮蔽林の方に眼を上げて、そこに水面からの反射の網の目をつくっているのを見るならば、水がその遮蔽林のところにも訪れに行っていること、あるいは少なくとも、そこに水の活動的で生き生きとした本質を送り届けていることを私は疑うことができないだろう。(『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』富松保文訳・注 武蔵野美術大学出版局 2015年 159‐160頁)

 この水の本質をめぐる記述様式を谷崎の文章に当てはめてみよう。
 「蠟燭や灯明の醸し出す怪しい光」にもかかわらずその大半を闇に隠された漆器を見るのではなく、まさにその光の底に、その光を通して、その光によって、私はその漆器を見る。蠟燭や灯明の弱光の揺らめきやそれがもたらす陰翳がないならば、そうした「肉」なしに漆器の絢爛豪華な模様を見るならば、それをあるがままのところに見ることを私はやめてしまうことになるだろう。怪しく揺れる光、ちらちらと顫動する元素、それがその暗い部屋の中にあると言うことは私にはできない。その光は、その部屋に住まい、その部屋にある漆器を微かに底光りさせながら、それに分かちがたく絡みついているばかりでなく、漆器の蒔絵模様の照り返しを通じて畳の上にもその生ける本質を送り届け、「夜そのものに蒔絵をしたような綾」を織り成している元素なのである。
 このように谷崎の文章を『眼と精神』風に変容させるとき、「画家が奥行きや空間や色といった名前で探し求めている」とメルロ=ポンティが言うものを谷崎は「陰翳」「闇」「綾」「深み」といった言葉を使って探し求めているのだということが分かる。
 とすれば、『陰翳礼讃』が実現しているのは、日本の伝統美へのノスタルジックな礼讃ではなく、存在の織地を組成している密やかな元素の再発見だと言うことができる。