内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

あの越えがたい限界の内側で―『ハドリアヌス帝の回想』より

2022-08-12 22:03:56 | 読游摘録

 この六月に刊行された大西克智氏の『『エセー』読解入門 モンテーニュと西洋の精神史』(講談社学術文庫)の中にマルグリット・ユルスナールの『黒の過程』(L’Œuvre au noir, 1968)の一節がちょっと予期せぬ仕方で引用されていて、その引用箇所にとても惹きつけられ、その仏語原文のみならずその他の作品も読んでみようと、まず手にしたのが『ハドリアヌス帝の回想』(Mémoire d’Hadrien, 1951)であった。原作が傑作であるのは言うまでもなく、その多田智満子による邦訳も名訳の誉れ高い。こういう名作は一夏かけて毎日少しずつ味わうようにして読みたい。深夜の静けさのなかで、病身の老ハドリアヌス帝の独白にあたかもその傍らに座しているかのように耳を傾けたい。

Ce terme si voisin n’est pas nécessairement immédiat ; je me couche encore chaque nuit avec l’espoir d’atteindre au matin. À l’intérieur des limites infranchissables dont je parlais tout à l’heure, je puis défendre ma position pied à pied, et même regagner quelques pouces du terrain perdu. Je n’en suis pas moins arrivé à l’âge où la vie, pour chaque homme, est une défaite acceptée. Dire que mes jours sont comptés ne signifie rien ; il en fut toujours ainsi ; il en est ainsi pour nous tous. Mais l’incertitude du lieu, du temps, et du mode, qui nous empêche de bien distinguer ce but vers lequel nous avançons sans trêve, diminue pour moi à mesure que progresse ma maladie mortelle. Le premier venu peut mourir tout à l’heure, mais le malade sait qu’il ne vivra plus dans dix ans. Ma marge d’hésitation ne s’étend plus sur des années, mais sur des mois.

死は間近いが、しかし必ずしもすぐというわけではない。わたしはまだ毎夜、朝を迎える望みをいだいて寝に就く。いましがた話したあの越えがたい限界の内側で、私は一歩一歩陣地を守り、何寸かの失地を回復することさえできる。とはいうものの、やはり、わたしが、人みなが生を敗北として受け入れる年齢に達したことには変わりがない。余命いくばくもない、ということはなにものも意味しない。いままでもつねにそうであったのだし、われわれはみな限られた命数しか もたぬのである。しかしながらわれわれが休みなしにそのほうへ進んでゆく終焉というものを、はっきり識別させぬよう妨げているのは、場所や時間や死にざまなどの不確かさであるが、わたしの死病が進行するにつれてその不確かさも減少してくる。人はだれでもいつなんどき死ぬかわからぬものだが、この病人はあと十年も自分が生きられぬことを知っている。あと幾月生きるかと思うことはあっても、あと幾年かなどと思いわずらう余地はない。