今朝、一時間余り走ってそろそろジョギングを終えようかと世田谷観音の脇の坂道を子の神公園の方へとピッチを上げて下っているとき、六時を告げる梵鐘がちょうど鳴り始めた。不意打ちを掛けられたかっこうで、その音の大きさに驚いた。二つ三つと六つまで時を告げる鐘の音を音源から遠ざかりつつ背後に聞きならが坂を下りきり、公園の角を右折して、蛇崩川緑道を駒繋公園の角まで進み、そこで右折して坂を上りきったところでまた右折、出発点へと帰り着く。
寺の鐘の音が生活の時を刻むことなど、現代の都会では縁遠いことになってしまったが、今朝の不意打ちによって、時を告げるという単なる機能性を超えた時空への想いへと誘われた。
阿部謹也の『蘇える中世ヨーロッパ』(日本エディタースクール出版部、一九八七年、二九〇頁)にはこう述べられている。
中世の人びとにとって音は大きく分けて大宇宙(マクロコスモス)の音と小宇宙(ミクロコスモス)の音に分けることができました。例えば森の梢を渡る風の音や狼の叫び声などは、大宇宙の音として恐れられていました。[…]自然現象に対して現実に無力であった中・近世の人びとは、鐘の力で小宇宙の平和を守ろうとしていたのです。その限りで鐘の音は小宇宙の平和のシンボルでしたから、鐘の音のなかに私たちはヨーロッパの真の姿を知ることができるのです。
この論点を前提として、それを日本史に応用して書かれたのが笹本正治の『中世の音・近世の音 鐘の音の結ぶ世界』(講談社学術文庫、 二〇〇八年、原本、名著出版、一九九〇年)である。
上掲書と合わせて、アラン・コルバンの『音の風景』(藤原書店、一九九七年、原本 Les cloches de la terre, Albin Michel, 1994, au format de poche, Flammarion, 2013)も読むことで、ヨーロッパと日本の鐘の音の感性史にひととき遊ぶのも、この酷暑の夏を室内で涼やかに過ごすよすがとなりましょう。
涼しさや鐘をはなるゝかねの声 蕪村