内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

「笊」よりもさらに徹底して無用なる「破木杓」― 『詩とは何か』から『正法眼蔵』の方へ

2022-08-19 17:22:22 | 読游摘録

 吉増剛造氏の『詩とは何か』からもう一箇所引いておきたい。

道元が、『正法眼蔵』の中で「ものを考えるときには、笊で水を掬うごとくにせよ」と言っているんです。
 ふつうでしたら逆ですよね。「笊で水を掬うごとく」では、もう水が漏れてしまいます。しかし、その漏れていく水の音に耳を澄まして、そのときを考えていくこと、すなわち、ものの役に立つとか目的があるとか、そうしたことを超えて、ベンヤミンの言う「純粋言語」のようなところに、あるいはそれを超えたところに向かって自分の心を間断なく据え直していく、そういうことを続けていくことが、やはり必要なようです。」(15頁)

 ここで言及されている表現が、あるいはそれに近い表現が『正法眼蔵』のどの巻に出て来るのか特定できなかった。仮にこの通りの表現あるいは類似表現が見いだせるとしても、吉増氏が言っていることがその解釈として妥当なのかどうかはまた別の問題である。
 だから、ここでは吉増氏がこの表現にどんなことを読み取ろうとしているのか、あるいは何を読み込もうとしているのか、について私の解釈を示すにとどめたい。
 ものを考えるのは言葉によるほかないとすれば、「笊」は言語、「水」は諸事象・諸現象、「掬う」は本質把握にそれぞれ対応すると読める。そう仮定すると、「言語では諸事象・諸現象の本質は把握できない」というテーゼが導かれる。このテーゼは、一般に言語はある一定の目的のために用いられるものであることを前提している。
 このような功利的あるいは目的論的言語使用によってはものごとの本質は把握され得ない。あるいはもっとラディカルに、それぞれのものごとには本質があるという前提は言語使用によって生じる思い込みに過ぎない、ということなのかもしれない。そのことを自覚し、より「純粋な」言語表現を探究し続ける中で、言表できないものの〈声〉を聴き逃さないように耳を澄ませること、それがほんとうに考えることだ、それが思索であり、詩作である、そう吉増氏は言いたいのではなかろうか。
 『正法眼蔵』「仏教」巻に「仏心」を指して「破木杓」という言葉が出て来る。壊れた木杓のことで、俗世間では無用のも、役に立たないものを意味する。『永平広録』巻十に収録された真賛の一つ「釈迦出山相」にも「破木杓」という語が出て来る。この「破木杓」とは一切の有用性を否定するものとしての無用性の暗喩である。
 「破木杓」は「笊」よりもさらに徹底して無用なるものである。それによって何ものも掬う(救う)ことはできない。それで掬えた(救えた)と思われるものはすべて幻に過ぎない。そのことの徹底した自覚の持続、掬えない(救えない)ものの声なき〈声〉に耳を澄まし続けること、それが思索(詩作)の道なのかもしれない。