高瀬正仁の『評伝 岡潔 星の章』は数日前に読み終え、その姉妹編である『評伝 岡潔 花の章』を今日で半分ほど読み終えた(どちらも、ちくま学芸文庫)。
八年間のフィールドワークの成果を存分に盛り込みたい気持ちはわかるが、どうしてこんなに日時にこだわり(何時発の夜行列車に乗り、何時にどこそこに着いた等の記述の頻出)、かつ記述がしばしば相前後し、ほぼ同内容の記述がうんざりするほど繰り返され、岡潔の生涯と関係が希薄な事柄にやたらに頁を割き、状況証拠のみからあれこれ推測しておいて、でも確かなことはわからないと肩透かしをくわせ、いささか主情的にすぎる解釈に流れる等、評伝としての難を縷縷あげつらうこともできるが、ときに示される著者の洞察はそれらの難を償って余りあるとも思う。
例えば、以下の二節。一つは、ガロアやアーベルの数学者としての事績と悲劇的な夭折について略述された直後の一節である。
学問の値打ちを理解する資格と力を備えているのは、学士院や大学のような組織の世俗の権威ではなく、理解する目と共鳴する心情とを合わせもつある種の特定の「人」なのである。もし学問で自信のある果実を摘んだという確信が訪れたなら、即座に理解されないことをむしろ喜んで、それを理解する力と共感しうる心情をもつ学問の仲間を探し当てて小さな精神の共同体を形成し、新しい学問の生成を目指さなければならないのである。心情と心情の共鳴こそ、学問というものの共通の基盤であり、学問の世界にただよう神秘感の、永遠に尽きることのない泉である。(247頁)
もう一つは、紀州紀見村で書かれた岡潔の第七論文が、三高京大時代以来の友人秋月康夫の仲介で、渡米する湯川秀樹に託され、湯川から角谷静雄、アンドレ・ヴェイユの手を経て、当時フランス数学会会長であったアンリ・カルタンの手に渡るまでの経緯を詳述した後の一節である。
岡先生は孤高の研究に身を投じ、苦心に苦心を重ねて独自の数学的世界の創造に打ち込んできた人だが、同時に、数は少ないとはいいながら真実の友情に恵まれた人でもあった。人は学問や芸術の領域では孤高でありえても、文字通りに孤立した人生をこの世に生きるのは不可能なのではないかとぼくは思う。岡先生の秋霜烈日の学問の人生といわば表裏をなすかのように、岡先生を囲む小さな美しい友情の物語が日に日に紡がれていたのである。(250頁)