内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

厖大な矛盾と不調和の塊であるロシア精神 ―「井筒俊彦『ロシア的人間』より

2022-08-27 15:08:21 | 読游摘録

 井筒俊彦の『ロシア的人間 新版』(中公文庫)が先月刊行された。単行本初版は弘文堂から一九五三年二月に出版されている。その時期は「スターリン体制と重なり、ロシア社会は外部に対して閉ざされていた。そのような状況で、井筒氏は、文献だけによって極めて精確にロシア人の特徴をとらえることができた」と本書の解説で佐藤優は高く評価している。井筒俊彦が捉えようとしたのは、「時代の流れによって千変万化する現象的なロシアではなくて、そういう現象的千変万化の底にあって、常にかわることなく存続するロシア、「永遠のロシア」」(序)である。その深い洞察には驚かされる。以下、第一章「永遠のロシア」からの摘録である。

 全世界の目が向けられている。全世界が耳をそばだてている。ロシアは一体何をやり出すだろう、一体何を言い出すだろう、と。その一挙手一投足が、その一言半句が、たちまち世界の隅々にまで波動して行って、到る処で痙攣を惹き起す。えたい今やロシアは世界史の真只中に怪物のような姿をのっそり現して来た。[…]誰も無関心ではいられない。好きでも嫌いでも、全ての人が関心を払わずにはいられないのだ。ロシアをめぐる空気は異常に緊張している。今日、ロシアはまさに文字通り一個の全世界史的「問題」として自己を提起した。みんながこの「問題」を解決しようと焦心する。ロシアの正体を誰もが知りたいと念願する。この怪物は一体何者なのか? 彼は何をしようというのか? どんな新しい言葉を我々に向って吐こうとしているのか?

 しかしここで注意しなければならないのは、ロシア的人間像の示す矛盾撞着がただの矛盾や分裂ではなくて、―つの幹から生長した大枝であり小枝であるにすぎないということである。上層部こそ千々に乱れ錯雑しているが、その根幹はただ―つである。だから当然、この根源がわかるとき、人は初めて現象面におけるロシア人というものが統一的に理解できるのである。「ロシアは普通の秤では量れない」とチュチェフは断言したが、それは全く何の秤もあり得ないということではなくて、かえってある唯一の、独特な秤をもってすれば立派に量れるということを意味する。何よりもまずその特別な秤を手に入れることが問題なのだ。

 ロシア的現象なるものの特徴をなす混沌はことごとく、人間存在の奥底にひそむただ―つの根源から湧き起って来る。ただし、その根源そのものもまた―つの混沌なのだが。その昔、古代のギリシア人が「カオス」と呼んで怖れたもの、太古の混沌、一切の存在が自己の一番深い奥底に抱いている原初的な根源、人間を動物や植物に、大自然そのものに、母なる大地に直接しつかと結び付けている自然の靭帯。西ヨーロッパの文化的知性的人間にあっては無残に圧しつぶされてほとんど死滅し切っているこの原初的自然性を、ロシア人は常にいきいきと保持しているのだ。西ヨーロッパでは、とっくの昔に冷却して死火山になっているものが、ロシアでは今なお囂々と咆哮する活火山脈なのである。

 ロシア人の魂は、ロシアの自然そのもののように限界を知らず、たとえ知っても、あえてそれを拒否しないではいられない。「一切か、しからずんば無!」というロシア独特の、あの過激主義はこういう魂の産物である。そして、行けども行けども際涯を見ぬ南スラヴの草原にウラルおろしが吹きすさんでいるように、ロシア人の魂の中には常に原初の情熱の嵐が吹きすさぶ。大自然のエレメンタールな働きが矛盾に満ちているように、ロシア人の胸には、互いに矛盾する無数の極限的思想や、無数の限界的感情が渦まいている。知性を誇りとする近代の西欧的文化人はその前に立って茫然自失してしまう。一体これはどうしたことだ。どう解釈したらいいのか。