内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

上代における「愛」と「恋」について(5)―「恋」が「弧悲」であるとき

2025-02-25 00:00:00 | 講義の余白から

 「恋ふ」という動詞のすべての変化形と「恋(こひ)」という名詞のいずれかが含まれる万葉歌は、ちゃんと数えたわけではないが、長短あわせて数百首はあろうから、それらすべてに当たる時間は残念ながら今の私にはない。
今回の授業の準備の一環としては、「弧悲」と表記された歌にのみあたった。全部で二十九首、三十例ある(巻第十七・四〇一一には二度使われている)。
 集中の用例分布には著しい特徴があり、巻第十七に十八例、巻第十八に二例、つまりこの二巻だけで用例数の三分の二を占める。巻第十七から第二十までの最後の四巻は大伴家持による編纂意図が直接的に強く働いていることとこの使用頻度とが無関係であるとは考えにくい。「恋」は「弧悲」に極まるという定言は、孤愁の歌人大伴家持にいかにも似つかわしい。
 しかし、この点ばかりを強調すれば、家持の歌人としての稀有な卓越性を見誤ることになるだろう。「家持には、歌の題詞に衆の中で「独」であることを表す例が多い(17三九〇〇)ことも忘れるべきではない。かくして、家持の「ひとりし思へば」は、恋にあらざるもっと深い人間の孤愁、社会の中にあって自己一人という真の孤独を言い表す、集中稀有の和歌表現である」(伊藤博『萬葉集釋注 十』(集英社文庫ヘリテージシリーズ、2005年、345‐346頁)からである。
 家持の孤愁は弧悲には尽くされぬことを認めたうえで、集中の「弧悲」全例に照らしてみるとき、愛する人から遠く離れて、あるいは、何らかの理由で長いこと会えないままでいるとき、あるいは、そもそも逢うことがかなわないとき、その人を思いつつ独り悲しむ「こひ」が詠われている歌において、「孤悲」という表記が特に意識して選択されていると見て差し支えないであろう(ただし、明日香旧都に対する懐旧恋慕の情を詠った三二五や飛び去った蒼鷹への情を詠った四〇一一はこれに該当しない)。
 このことは、しかし、他の表記の場合には「弧悲」という含意がないということを直ちに意味するわけではない。原文で「こひ」が別の漢字で表記されていても、そして今日通用している訓み下し文では一様に「恋」の字が当てられていても、あるいは動詞「恋ふ」の他形であっても、そこに「弧悲」の意が込められている歌ももちろんある。
 他方、「弧悲」ばかりを上代の「恋」の特徴として強調するのも行き過ぎであろう。「恋」は「恋ふ」の連用形名詞であるから、まずは動詞「恋ふ」の意を『古典基礎語辞典』で確認しておこう。

コフ(恋ふ)は身も心もひかれている異性に対して、しきりに逢いたい気持ちがつのる意を表す。その後、用法が拡大して家族など、相手が複数の場合もあるが、コフの主格は一人に限られている。連用形コヒを「弧悲」と書き表したものなど一人悶々と恋着する様子をよく表した用字法である。日常親しい動物や遠く離れた土地などを対象にした例もあるが、比喩としての用法である。

 この解説に従えば、「恋ふ」は他者と共有されうる感情ではない。たとえそれが恋する相手とであってさえも。いや、まさにその相手とは共有し得ない切ない感情を相手に対して持つことが「恋ふ」ことであると言うべきだろう。「恋ふ」のはほかならぬこの一人の〈私〉なのだから。この共有不可能性が「恋ふ」の本性である。「弧悲」という表記が選択された理由もそこにある。