内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夢見るにはあまりにも醒めすぎていた紫式部の孤独

2019-04-07 17:18:58 | 講義の余白から

 『蜻蛉日記』の中の夢の記述については、先月末の三日間の記事で、西郷信綱の『古代人と夢』に依拠しながら若干の考察を行った。そこで、今週の古典文学の授業で『紫式部日記』を取り上げることもあり、そこでは夢がどのように扱われているか調べてみた。
 『蜻蛉日記』と違って、『紫式部日記』には夢そのものの記述はまったくない。
 「夢のやうに」という表現が三回出てくる。最初に出てくるのは、神器の勾玉を運ぶ弁の内侍の立ち姿の美しさを褒めるところである。

夢のやうにもこよひのたつほど、よそほひ、昔降りけむをとめごの姿も、かくやありけむとまでおぼゆ。

 この「夢のやうに」は、今日私たちがこの世のものとも思えぬ美しい立ち居振る舞いを見て「夢のよう」というのと同じで、ごく普通の用法だ。ところが、次の箇所では、「夢のやうに」は、それとは違った意味で使われている。

舞姫どもの、いかにくるしからむと見ゆるに、尾張の守のぞ、心地あしがりていぬる、夢のやうに見ゆるものかな。

 五節の舞姫たちの一人、尾張守の舞姫が気分を悪くして退場してしまったのを目の当たりにして、それが「現実の出来事ではないように」と言っている。もちろん肯定的な意味ではなく、少なくとも中立的な、あるいはむしろ「悪夢のように」という否定的な意味さえ帯びていると解釈することもできる。
 三番目は、帝の「童女御覧」の日の童女たちの姿を批評した後、我が身を振り返って、紫式部が女房勤めに慣れて次第に厚顔無恥になっていくであろう自分を想像して自己嫌悪に陥る箇所である。

身のありさまの夢のやうに思ひ続けられて、あるまじきことにさへ思ひかかりて、ゆゆしくおぼゆれば、目にとまることも例のなかりけり。

 「自分自身の将来が次から次への嫌な夢のように浮かんで」(山本淳子訳)、さらにはあってはならぬことまで思いつき、ぞっとしてしまい、いつものことながら、目の前の華やかな儀式も目に入らないといった精神状態が綴られている。
 「夢路」という語が一回だけ使われている。しばらく自宅に帰っていた後、師走の二十九日に出勤して、初めて中宮様のもとに出仕したのも同じ師走の二十九日の夜だったと想い出す箇所である。

いみじくも夢路にまどはれしかなと思ひ出づれば、こよなくたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。

 まるで夢の中でのように覚束なかったと初出仕のときのことを想起している。
 上掲四例、いずれも夢を現実のあるべき姿とは異なるものと捉えている。しかも、最初の一例を除けば、夢は、まことに儚く頼りなく、ときには忌まわしいものでさえあり、現実さえその夢のように思われるときがあるとする無常観を表現している。
 人間の実存についての紫式部の洞察力は、自己に対しても容赦なく、夢に一定の現実性を認めるにはあまりにも独り醒めていた。












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