内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

夢そのもの、そして夢への反省的関与もまた生の一部をなしている

2019-04-06 23:59:59 | 雑感

 私たちはもう古代人のように夢を現実の一部として信じることはできなくなっている。
 それにしても、夢というのは不思議なものだ。現代人の多くにとって、夢は、現実とははっきり区別され、現実に影響を及ぼすような重要な意味を持っているとは考えないのが普通だろう。覚醒時の生活の中の出来事や心配事や気になる人のことが夢の内容に何らかの仕方で反映されるということは多かれ少なかれ皆心あたりのあることだろうが、だからといって、その夢が現実の一部を成すとは考えないだろう。
 私たちが見ることができるのは自分の夢だけだ。他人の夢はのぞき見することさえできない。脳波を見て、その人が今夢を見ている状態だということはわかっても、夢の内容はわからない。自分の夢でさえ、その夢をビデオ撮影できないし、「実況中継」も不可能だ。目覚めた後、書き留めるか録音するかしなければ、大抵は忘れてしまう。それに夢を見たということは覚えていても、その内容は目覚めた途端に曖昧になってしまうことが多い。
 私の場合もそうだ。よほど強烈なイメージでもないかぎり、思い出そうとしても、うまく思い出せない。夢見ていたときの気分だけが覚醒後も余韻のように残っているだけのことが多い。そして、その余韻は大抵不快なものであり、そんな仕方で夢が現実に侵食してくることにうんざりするのが落ちだ。
 もっとも、中には、驚くほど克明に細部まで夢の内容を覚えていて、しかも「天然カラー映像」だという人もいる。それにしても、そのように「再話された」あるいは映像として再現された夢と「現に」見られた夢とは異なる。見られた夢には反省的にしか関与できない。
 しかし、睡眠は、私たちが生きるために不可欠であり、その睡眠中に多くの場合夢を見ているとすれば、睡眠は、意識の休息であると言うよりも、覚醒時とは異なった意識活動だと言ったほうがいいだろうし、夢の内容がその活動そのものを成している、あるいはそれと密接不可分な関係にあるとすれば、夢はやはり私たちの生にとって重要な意味を持っていることになる。夢の中である数学の問題が解けたという場合のように、夢の内容が現実にも有意な結果を生む場合もある。ただ、そのような現実世界における実効性ということは今措くとして、また精神分析学的な解釈だけを特権化するわけでもなく、もっと単純に、かつ一般的に、自分自身の夢への反省的関与もまた生の一部をなしていると思う。












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