内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

唐木順三『詩とデカダンス』を読む(三)

2015-02-18 17:34:32 | 読游摘録

 ニーチェの呪縛に捉えられた日本の文学者・思想家・哲学者は少なくないが、唐木も『詩とデカダンス』を執筆していた一九五〇年代初めには、その一人だったようである。実際、同書の「事実と虚構」と題された最初の章には、ニーチェからの引用が多数見られる。
 ダンディスムからデカダンスへ、そしてデカダンスからニヒリズムへとヨーロッパ近代思想が頽落していく過程を歴史的に辿り直した上で、ニーチェにおいてその「最極端な形」である「永劫回帰」に達したニヒリズムを唐木は叙述する。その叙述の仕方には、一つの思想を冷静に紹介するというよりは、唐木自身がそのニヒリズムと格闘しているかのような切迫感がある。そして、こう吐露する。

私は、私の言葉を吐こうとしながら、ニイチェの呪縛にかけられてしまっている。一思いにここを飛び越すより外に法がない(68頁)。

 だが、その跳躍は容易ではない。なぜなら、唐木による当時の時代認識によれば、「完全なニヒリスト、従って最後のニヒリストであると自らいったニイチェの没後五十年、ニヒリズムはいよいよ色濃く世界の底に動いている」からである。しかし、やはりニイチェがそこから出発したところへ帰ることは避けて通れない途と唐木は考える。「ニイチェとともに出発しなくてもよい、ただニイチェとともにそこへ帰ること。事実へ、自然へ、永劫回帰へ帰ること。それなくしては世界は道化と知らない道化の盛り場に終るより外はない」(70頁)。
 唐木は、ニイチェについて論じ始める前に、ヴァレリーの事実と虚構についての論を取上げており、その論がこの章の全体の議論の枠組みになっている。その論によれば、人間社会は、獣性から秩序にまで高まってゆく。野蛮は、事実の時代であり、秩序の時代は、擬制(虚構)が支配する。即自的な事実ではなく、約束事に基づいた制度が発達し、その擬制が現実的な効果を持つことが社会の本質をなしている。
 このようにして発達を遂げたのが西洋近代社会だったとすれば、その社会が擬制の果てにニヒリズムに転落するのは必然的な帰結でなければならないことになる。唐木は、ニ―チェの後にハイデガーを取り上げ、ハイデガーが、ニーチェの「権力意志」によってもそこから救われないとしたニヒリズムをいかに克服しようとしたかを探る。しかし、そのハイデガー自身、その克服の途を哲学の内には見いだすことができず、詩人の言葉の中にそれを索める。そこでリルケが登場する。そのリルケの「開け」から、日本の風狂精神への通路が、まさに開かれてくる。
















唐木順三『詩とデカダンス』を読む(二)

2015-02-17 18:35:47 | 読游摘録

 『詩とデカダンス』は、一九五二年の創文社刊行の初版では、「事実と虚構」「狂の諸相」「教養ということ」の三部構成、一九六六年の講談社版では、それにさらに四篇が「近代における芸術の運命」というタイトルの下に追加されている。私の手元にある中公選書版では、この中から「教養ということ」が省かれている。
 私自身の問題関心からすると、第一部「事実と虚構」と第二部「狂の諸相」が特に興味深い。そこには、思索家(デンカー)と呼ばれることを自ら望んだ唐木の思想家としての資質がよく出ている。すでに出来上がった考えを建築物のように積み重ねるのではなく、およそのプランだけで書き始め、何人かの文学者・思想家・哲学者たちの著作を読みながら、それらとの対話を繰り返し、自らの思索を展開しつつ書いていることが、読んでいてよく分かる、その過程で、今もこちらに問いかける力を持っている鋭い問題提起と、人間の命運についての柔軟で独自な洞察が生まれてくる。後年の著作に見られる自在な筆致に比べると、西洋の著作家たちへの言及が多いせいもあるのか、文章がやや固く、しかもどこか切迫感が感じられる。それは昨日引用した「新版のための序」で回顧されているような当時の緊張感を孕んだ問題意識を反映しているということでもあるのだろう。
 初版一九五二年版の「あとがき」を読むと、唐木において、西洋近代批判と日本の風狂の文学がどのように切り結ぶのかがよくわかる。

デカダンスは一言にしていえば、旧い側からの超俗、脱俗、離俗の精神である。西洋でいえばブルジョワに対する貴族的、詩人的抵抗の精神と行動であった。富のために富を追求することを本質とするブルジョワジイに鋭く対立し、浪費と放蕩と無頼の生活の中から美しくかなしい詩篇を結晶せしめて亡び去ったことはひとの知る通りである。我国の風狂、風流も、俗世間、俗物と対立するものであることはいうまでもない。然し、それは単にブルジョワに対立するばかりでなく、ひろく人間のうちにひそむエゴイズム、或いは私意、執着と対立し、それを斥け笑い、みずから自然のうちにとけこみ、自然とともに去来することをもって本分とした。自然と人為、空と色、事実と虚構の問題は、風狂、風流を深く考えてゆくとき、どうしても当面せざるをえないものとして出てくる。東洋の詩人たちは、自然、空、事実の哲学を、吹き来たり吹き去ってとどまらない自在の風として感覚した。風狂、風流はこのような風性を背景にして初めてよく風狂、風流であったのである(255-256頁)。

 この引用の中に出てくる「自在の風」として感覚され、詩人たちによってその生活そのものとして生きられた「哲学」、それを唐木は自分自身の課題として『詩とデカダンス』の中で追究しているのである。












唐木順三『詩とデカダンス』を読む(一)

2015-02-16 22:48:29 | 読游摘録

 風流・風雅・風狂についての考えを整理し、理解を深める一つの手がかりとして、唐木順三の『詩とデカダンス』を読んでいる。初版は昭和二十七年(一九五二)に創文社の「フォルミカ選書」の一冊として出版されたが、すぐに絶版になってしまったようで、昭和四十一(一九六六)になってよううやく講談社から新版が刊行された。その後の経緯はよく知らないが、筑摩書房の全集版を除けば、またしばらくは入手しにくい本だったのではないだろうか。二〇一三年になって、中央公論新社の「中公選書」の中の「唐木順三ライブラリーII」として、『無用者の系譜』との合本で出版され、また入手しやすくなった。私が持っているのもこの最新版である。
 唐木順三というと、中世を中心とした日本文学・思想で特に注目すべき仕事をした人という印象が強いが、若い頃は近現代思想についていくつかの著作もあり、この『詩とデカダンス』は、西洋思想を強く意識した近現代研究から日本中世研究へと転じていくちょうどその転換期の著作で、両方の性格を併せ持っているのがその特徴である。
 この本の主題については、講談社版の「新版のための序」に、唐木自身が決然と述べているのでそれを引用する。

この本の主題は近代批判であり、近代の帰結としてのニヒリズムにどう対処すべきかということである。西洋の近代が世界の近代を支配し、日本での近代化の問題は即ち西欧化の問題であった。当然にそこから伝統と近代という問題が起る。そしてニヒリズムが近代の帰結であるとき、近代化に対して楽観的ではありえない。寧ろニヒリズムから如何にして脱出するか、如何にしてそれを超えるかが現代の課題である。私はこの課題を自分自身に課した。そして日本の中世の宗教や文学、即ち伝統を、もういちど考えてみるべきであると思い、そこへ入っていった。西洋や新大陸、またアジヤで、さまざまな形で試みられたニヒリズム脱却の道は、結局は失敗や犠牲や苦悩のくりかえしであったと思う。そしてむしろ、ニヒリズムを徹底させ、ニヒルをもニヒル化するという道、無をも無化し、空をも空ずるという方向より外に、それを超える道はないと思うにいたった。そういうことの端緒がこの『詩とデカダンス』に示されていて、私自身にとっても記念すべき本である」(30-31頁)。

 風流・風雅・風狂について論ずる章に至るまでに、近代の問題を剔抉するために引用されている西洋の文学者・思想家・哲学者たちの名前を出てくる順に挙げてみると、ボードレール、ニーチェ、キェルケゴール、モンテスキュー、ヴァレリー、ハイデガー、リルケなどである。特に、ニーチェとハイデガー、そしてハイデガーによって論じられているリルケに割かれている頁数は少なくない。
 唐木の日本文学へのアプローチは、私にとってはとても刺激的で、ときにはちょっと強引じゃないかと思うところ、同意できないところもあるが、教えられるところも多い。
 そんなわけで、明日以降、このブログの記事として、何回かに渡って『詩とデカダンス』について覚書を書いていこうと思う。












風問答

2015-02-15 18:24:43 | 随想

 今日も一日、「風」について考え続けた。
 風は何処に吹くのか。これが今日の問題である。と言えば、たちどころに、「あんた、よっぽど暇なんやなあ、そんなこと考えて何になります? そりゃあ、あんた、風ならどこでも吹きますがな、外ばかりじゃのうて、家の中でも隙間風っていうのが吹きまっせ、おお寒っ」と、もう呆れてものも言えんという顔で応じてくれるお節介な関西人(なぜここで関西人が登場するのか、私にもわからないが、気分的にそうなのである)も世の中にはいるであろうが、そういう人たちはお呼びでない。
 風は何処に吹くのか。「そんなに気にしはるんなら、気象予報士のお姉ちゃんにでも聞かれたらどうです?」と、またしでもお節介な関西人はしつこく絡んでくるであろうが、それもお門違いである。これは、まさに哲学的な問いなのである。これを聞けば、さっきの人は言うであろう、「もう勝手にしなはれ」と。そうくれば、私がもし江戸っ子であれば、「上等でぃ、とっとと失せやがれ!」と応じたことであろう。因みに、私は東京生まれの東京育ちであるが、山の手育ちのお坊ちゃまであるから、下町言葉は使わない(というか上手に使えない)。幼少の頃、私の母は、椅子に座って足をブラブラさせている行儀の悪い私を注意するのに「◯◯ちゃん、御御足(「おみあし」と読む)!」と宣われたそうで(注意された本人はもう覚えていないが)、それを脇で聞いていた幼い妹は、「ふーん、お兄ちゃんの足は「オミアシ」って言うんだぁ」としばらく思い込んでいたと昨年末に聞かされた。
 こんな落とし噺をするために今日の記事を書き始めたのではなかったのだが、つい筆(ではなくて、キーを叩く手)が滑って、思わぬ展開となってしまった。気を取り直して、なんとか立て直そう。
 風は何処に吹くのか。関西人曰「もう、ええっちゅうに!」(あれっ、まだいたんですか? もう無視する)。
 もちろんここで期待されている答えは、気象学的なものではないし、流体力学的なものでもない。なぜなら、この問は、人間存在の根本に関わる形而上学的な問いだからである(と大きく出れば、先の関西人でなくても引くであろうことは自覚している)。
 風は、何処にも吹く。しかし、何方より来たり、何方へと去るのか。風は、物を震わせ、樹々草花を揺らせ、水面を波立たせるが、己自身は姿を見せず、実体を有たない。風は、世界の事物の一部をなすのではなく、それらの「間」を自在に流れる。風は、物に満たされた世界につねに現前している目に見えない「開け」の「おとずれ」でなくて何であろう。風に触れて、私たちの心が、あるいは心地良く、あるいは冷たく、あるいは恐ろしく震えるのは、私たちが日常そこに生きている物に覆われた世界が、実は無限の「開け」において結ばれる仮象にしか過ぎないことを、そのとき直接感受するからこそではないのか。風は、全存在を無限に超え包む無窮の動性、太古の記憶、永劫の未来、永遠の現在のメッセンジャーとして、それらへの招待状として、「開け」から「開け」へと虚空を吹き抜け続けている。『正法眼蔵』「現成公案」には、「風性常住無処不周」とあり、この「風性」は「仏性」に他ならない。
 この「風」に気づき、その声に聴き従いつつ、それに呼応する詩的表現の精錬を目指す生活のあり方が「風雅」、その「風雅」に徹して、普段の生活の軛を断ち切り、不断の「旅」に出るのが「風狂」だと言えるのではないだろうか。蕉風確立の第一歩となる『野ざらし紀行』の第一句が「野ざらしを心に風のしむ身かな」であるのは、偶然ではないであろう(この句についての私見はこちらの記事を参照されたし)。














「風」の文藝史

2015-02-14 18:49:44 | 講義の余白から

 今朝からずっと「風」のことを考えている。
 といっても、外を吹く風のことではない。それに今日は昼過ぎからよく晴れ、風もない。先週届いた整理戸棚にしまう書類の整理も済み、これで書斎はほぼ望んていた通りの形になった。とても満足している。ベランダに面している全面二重窓越しには、視界の中で重なり合う冬枯れの樹々の向こう側に透明な冷気に満たされた青空が広がる。その窓を背にすると、部屋の奥には、棚の一列に左右にゆったりと空間をとって配置されたステレオとその上の棚にお気に入りのバッハのCDが並べられている整理戸棚が見える。朝からずっと好きな音楽を聴いている。今聴いているのは、マリア・ジョアン・ピレシュ演奏のシューマン『森の情景』。部屋の奥に向かって左右の壁には、左側に六つ、右側に四つの本棚が並んでいる。先月末に買い足した四つの本棚のおかげて、蔵書のすべてを、ところどこに空きスペースを取りながら、ゆったりと配列できるようになった。それまで段ボール箱に詰めたままだったCDも一つの本棚にすべて並べることができ、それらの背ラベルを眺めていると、あれこれと聴きたくなる。十九年前にフランスに来てすぐに買った楕円形のテーブルを今も使っているのだが、先週整理戸棚が届くまでは、ステレオとCDの置き場になっていて自由に使えなかった。今はそれを第二の仕事机兼食卓として使えるようになった。これで同時進行中のいくつかの研究のための参考文献をそこら中に広げたままにしておくことができるようになった。
 昨日の講義では触れる時間がなかったのだが、芭蕉の俳諧の境地を説明する言葉として「風狂精神」という言葉が使用教科書に出てくる。そしてその下に括弧して「風雅に徹する心」と一言注してある。しかし、これだけで「風狂」が何を意味しているのかわかるくらいなら教えるのに苦労はないが、「風雅」にしてからが説明を要する概念である。それに「徹する」とは、どういうことなのかも説明しなければならない。来週の講義では、それらについて『野ざらし紀行』を読みながら説明するので、その準備のためにあれこれ参考文献を読み始めた。ちょっとやそっとで扱えるようなテーマではないことはもちろんわかっていたが、それらを読み始めると面白くなってしまい、気がつくと夕暮れである。ちょっと森の入り口を散歩して引き返すつもりだったのが、その森の霊気に引き込まれ、どんどん深入りしてゆき、日も暮れ始めたというのに、どこから引き返したらいいのかわからなくなってしまい、途方に暮れているような状態だと言えばいいだろうか。
 今日のところは、帰り途を見つけるために、ちょうど地図を開き磁石で方向を確かめ自分の現在位置を探すように、辞書の定義をいくつか書き付けることで満足し、今夜は「森」の中で「野宿する」ことにする。
 手元の旺文社『古語辞典』(第十版)を見ると、「風雅」のところには、第一の意味として、「詩歌・文章の道。文芸。詞章」とあり、用例として、『太平記』の一節が挙げてある。第二の意味は、「蕉門で、俳諧の道」とあり、『去来抄』の一例。その後に「語史」として、「中国の詩の「六義」の中の風と雅で、「風」は「ひなぶり」、「雅」は「都ぶり」で、風雅で詩を代表させたのがもと。中世末・近世には、「詩歌・文芸」の意。特に蕉門では「俳諧」の意」との説明がある。確かに『古今和歌集』「真名序」にも、「和歌有六義。一曰風、ニ曰賦、三曰比、四曰興、五曰雅、六曰頌」とある。「風狂」の方はというと、第一の意味が「気が狂うこと。狂気」で、例は『沙石集』から採られている。第二の意味は、「風流に徹すること。風雅に心を奪われること」とあり、例は『三冊子』から。この第二の意味の中に出てくる「風流」の項も見ると、意味が五つに分けてあって、その最初の三つを引くと、第一が「意匠をこらすこと。美しく飾るさま」、第二が「伝統。先人が残し伝えた美風」、第三が「[風流韻事の略]みやびやかなことをして遊ぶこと」とある。「風流」の形容動詞としての用例は、やはり『古今和歌集』の「真名序」に見出だせる。
 「風雅」「風流」「風狂」の他にも、日本の文藝の要諦を理解する上で鍵となる概念には、「風月」「風姿」「風体」「風韻」など、「風」を最初の一字とするものは少なくない。これらの諸概念それぞれの用例を通時的に丹念に辿る概念史的アプローチと、それぞれの時代におけるそれら概念間の、さらには隣接諸概念との間の弁別的価値を相対的に規定する構造主義的アプローチを組み合わせ、さらにはそれに形而上学的次元の考察を加えれば、一つの「「風」の文藝史」が構想できるのではないかと妄想している。












俳諧と俳句

2015-02-13 23:55:55 | 講義の余白から

 今日から学部三年生の講義「近世文学史」は、俳諧に入った。まずは教科書に沿って、前期に学んだ中世の俳諧の連歌を振り返ってから、近世に入り、貞門、談林派、芭蕉とちょうど三段跳びのように俳諧史を一時間ほどで辿り直し、いよいよ芭蕉の俳諧の説明を始めた。今日のところは、芭蕉自身があたかも俳諧史を生き直すかのような階梯をたどった前半生から、いよいよ蕉風の確立へと『野ざらし紀行』の旅に出て以降、旅に生きながら傑作を生み出しつつ、『奥の細道』に至る俳諧の道を一気に素描した後、小西甚一の『俳句の世界 発生から現代まで』(講談社学術文庫)の「はじめに」の最初の節「俳諧と俳句」からの抜粋を読ませ、俳諧と俳句との決定的な違いをしつこいほど強調した。
 というのも、「Haïku」という言葉はフランス語にも入っていて、フランス語による実践もあったりして、それはそれでどうぞご自由にというところだが、日本文学史をまるで無視して、「ハイク」(こう片仮名でかくと、まるでヒッチハイクみたいではないか)を振りかざすのだけはやめてほしいとかねがね思っていて、せめて日本学科の学生だけでも俳諧と俳句の違いはしっかりと理解してほしいと切望しているからにほかならない。小西甚一の本は、もともとが素人にもわかるように噛んで含めるように行われた講義がもとになっているので、こういう場合に援用するのに好都合なのである。
 以下が今日学生に読ませたその抜粋である。

 そもそも、正式連歌の時代から俳諧連歌にいたるまで、共通の特色がふたつある。その第一は、作る者と享受する者とが同じグループの人たちであること、第二は、それを制作ないし享受するための特殊の訓練が要ることにほかならない。
 平安時代以来、作る者と享受する者とがはっきり別である種類のわざは藝術にあらずとする意識が、根づよく存在した。もちろん、その反対は、藝術なのである。いまわたくしたちは、画や彫刻を藝術だと意識する。しかし、それらは、昔の人たちにとっては、けっして藝術ではなかった。それらは工藝品にすぎず、その作者たちは工(職人)なのである。かれらにとっての藝術は、書であった。書の巧みな人は、りっぱな藝術家として尊敬された。なぜなら、書を享受する人は、同時に書を制作する人だからである。和歌も藝術であった。和歌を作る者が、同時に和歌を享受する人だからである。しかし、物語(小説)は、藝術でない。なぜなら、自分で物語を作る者だけが物語を享受できるとは決まっていないからである。その意味において、俳諧は、藝術であることができた。
 次に、俳諧を享受するためには、特別な心得が要る。[…]もっと根本的には「この句のどこがおもしろいか」を感じとる感じかたまで、ちゃんとした筋道があり、それを体得するのでなければ、正しい理解のしかたは、無益でもあり有害でもあるとされる。そこには、特殊な享受のしかたを訓練された人たちだけの構成する世界ができるわけで、その世界のなかに身を置かないと、俳諧を享受することができない。だから、俳諧は、ひとつの「閉鎖された世界」であり、また「自給自足の世界」でもあって、どこからでもおいでなさいの自由貿易国ではない、その点は書でも 和歌でも、同じことである。
 ところが、俳句になると、すっかり逆である。俳句とは、正岡子規による革新 以後のものをさすのだが、それは、かならずしも作者イコール享受者であることを要求しない。俳句つくりだけを職業としても、世間は藝術家だと認めてくれる。 俳句を作らない俳句評論家が出ても、俳壇から蹴り出される心配はない。もっとも、事実としては、作者イコール享受者の傾向がなかなか根づよく、それが俳句は第二藝術なりとする桑原旋風をまきおこす原因ともなったのだが、原則としては、けっして作者イコール享受者を主張しない。そこに、俳諧との明確な差がある。 また俳句を享受するために、特別な訓練を要求することもない。普通にものごとを理解できる人なら、誰でも享受してくださいである。[…]要するに、俳句は 「開放された世界」なのである。それが子規による革新のいちばん重要な眼目でもあった。

小西甚一『俳句の世界』、二〇-二二頁。

 この抜粋を読み終えたところで今日の講義は終了。その直後のオフィスアワーで、学部二年生の二人の女子学生が、「比較文学」の演習で俳句について発表することにしたから、アドヴァイスがほしいとのかねてからの約束でやってきた。そこでちょうど今日の講義で話したことをもう一度繰り返し、さらに近代俳句と日本の近代化の関係について一席打ったら、あっという間に一時間過ぎてしまった。最後に、学生たちが、その発表の中でいくつか俳句を紹介したいと言うから、だったらフランス語にその主要な小説がすべて訳されている上に、俳句集の仏訳まである漱石の俳句がいいのではないかと、私も大好きな二句を候補として挙げておいた。その内の一句は、このブログでもかつて紹介した













恥と羞恥

2015-02-12 21:43:50 | 雑感

 今日は疲れている。昨晩、ブログの記事を投稿した後、コンピュータの調子がおかしくなり、よせばいいのにあれこれいじっていたらますますおかしくなり、とうとう再起動しても画面が真っ暗なままで、どのキーを叩いてもまったく反応しなくなってしまった。コンピュータに向かって「この役立たず」などとさんざん喚いて罵倒し(馬鹿である)、もう一台のつねに同時に稼働させているコンピュータの方で仕事は滞りなく処理したが(さすがである)、面白くない。そんなわけで、さっさと寝るつもりが、結局午前一時まで苦虫を噛み潰したような顔をして(いたと思う)、コンピュータを睨みつけていた(ちょっとアブナイんじゃないですか)。
 今朝は、昨夜のショックで、7時半にようやく目が覚めたが、恐る恐る抜き足差し足でコンピュータに近づいてみると(意味不明)、ちゃんと初期画面が立ち上がっているではないか。「なあんだ、機嫌直してくれたんだ」と迂闊にも喜んで、念の為に再起動したのが間違いのもとであった。また真っ暗画面に戻ってしまった(また修理に出さなくてはならないのかと思うと憂鬱)。
 しかし、万難を排して、明日の講義の資料作りはしなくてはいけない。無情にも真っ暗な画面のコンピュータを横目で冷たく一瞥して、「もう君とはやり直せないかもしれない」などと訳の分からないことを呟きながら、もう一台のコンピュータで資料作りは無事完了(ざまあみろ)。昨日の予定では、朝一でこの作業を済ませ、午前中にプールに行くつもりだったのに、予想以上に時間がかかったこともあり、それもかなわず、午前中は資料作りだけで終わってしまった。
 午後一時半にIKEAからの配達。書斎に置く整理戸棚が届いたのである。その組み立てと資料の整理で午後は潰れてしまい、しかもなぜかひどく疲れた。組み立てであんまり右腕を酷使したから、腕がだるいし、肘を曲げる角度によっては鋭い筋肉痛が走る。もう何もしたくない。
 とは言いながら、さっき修士一年の学生から届いた日本の大学に留学するための志望動機書はすぐに添削して、もう送り返してあげた。もうほとんどもとの文章が残らないくらいに直したから、日本語としては完璧だが、これじゃ本人が書いたんじゃないってすぐにわかってしまうよなあ、やりすぎたかなあと反省している。しかし、わざとぎこちなさを残すように添削するのはもっとむずかしい。
 ここまでの与太話は、今日の記事のタイトルとは何の関係もない。では、なぜこのタイトルにしたかというと、「恥と羞恥」をテーマとした「現存在分析フランス学会」の研究集会が五月末日にパリのエコール・ノルマルであるのだが、そこで「日本文化における恥と羞恥」について話してほしいという依頼が一昨日学会責任者からメールで来て、即座に承諾し、昨日今日とその学会責任者とテーマについてメールのやり取りをしていたからなのである。
 ある高名な先生が依頼を断ったから私にお鉢が回ってきただけの話なのだが、今から十四年前、まだ博士論文を書いている時に、同学会が木村敏を研究テキストとしていたときに、西田哲学について一度話したことがあり、これも何かの縁であろうと引き受けたのである。しかし、引き受けただけで、何を話すかはこれから考える。
 今日は疲れた。右腕も痛い。風呂にゆっくり浸かって、体をほぐしてから寝ることにする。














文学は哲学である

2015-02-11 16:37:14 | 哲学

 日一日と情け容赦なく迫ってくる来月のシンポジウムであるが、そこで発表したいと思っていることを、最初は漠然とでもいいから、このブログの記事にしていこうと思う(つまり、本当に焦ってきたのである)。
 当日の発表では、日本の古典文学の中からいくつかの作品の一部を主張したいテーゼの例解として示しながら、話を進めていくことになるが、発表時間は三十分と長くはないので、テーゼそのものについてはあまり立ち入った話はできないだろうから、それをブログの記事として書き留めていこうと思う。そうしているうちにきっと発表内容の輪郭もはっきりしてくることであろう(というのは、願いにも似た希望的観測である)。それに、発表そのものには直接生かせなくても、この予備的な理論的考察がシンポジウム以後にどこかで役に立たないともかぎらないではないか(なんか無理している感じですが、かくして自分を鼓舞しているのである)。
 さて、その肝心なテーゼであるが、それを一言で言うと、今日の記事のタイトルに掲げたように、「文学は哲学である」という、かなり大胆な(と言えばまだ聞こえがいいかもしれないが)、むしろ甚だ乱暴な主張なのである。しかし、これをフランス語で、 « La littérature est une philosophie » と書くと、もう少し穏やかな主張になる。つまり、「文学も一つの哲学である」と言っていることになるからである。
 しかし、このテーゼによって私が主張しようとしているのは、「ある種の文学は、哲学的と見なせるような要素を含んでいる」というような穏健な意見ではない。「文学も、見方によっては、一つの哲学だ」という条件付きの命題でもない。両者の歴史的変遷を辿り直しつつ、両者の接点あるいは境界領域、さらには共通の起源を探し出そうという「考古学的」アプローチでもない。
 まず、文学と哲学とをすでに確立された二つのジャンルとして、つまり、それぞれの中にあれこれのテキストを分類できる既得のカテゴリーとして、扱うのをやめてみよう。そのようなカテゴリーとしての自明性を疑い、それを一旦括弧に入れ、目の前に置かれた「生の」テキストを、或る一つの哲学的関心から読んでみよう。そのとき、これまでいわゆる「文学作品」として考えられてきたテキストにおいてこそ可能な哲学的問題へのアプローチの仕方があり、その解決もそのテキストそのものにおいて「書くこと」そのこととして「実践」されている、ということが見えてくるのではないだろうか。
 とまあ、以上がおよそ主張したいことなのだが、今日はこの辺でやめておくことにする。今晩は、これから心身の栄養補給をして明日の思索に備えることにする。












講義の準備にのめり込む

2015-02-10 18:52:27 | 雑感

 昨日の記事で、今日から来月のシンポジウムでの発表原稿の準備に取り掛かると高らかに(でもないか)宣言したにもかかわらず、今日はそのためには何もできなかった。というのも、後期の担当講義は二コマだけで時間的にはかなり楽なのであるが、その二つの講義とは「中古文学史」と「近世文学史」で、今週はどちらもその最大の山場に入るので、講義の準備が大変だったというか、自分でも最も力を入れたいところなので、準備にのめり込んでしまったというわけである。
 何しろ中古の方が『源氏物語』、近世の方が俳諧なのであるから、どちらもまさに日本が世界に誇る日本文学の精髄なわけで、これは誰がやったとしても、熱が入るところであろう。学生が関心を持とうが持つまいが、そんなことはどうでもよく(はないが)、とにかくこちらとしてはちゃんと紹介する責任と義務がある。
 日曜日も月曜日もそんなわけで一歩も外出せずに丸一日ほとんど机に向かっていた。学生に読ませている教科書だけ予習するなら、それぞれ二時間、つまり講義時間と同じくらい準備すれば十分なのであるが、昨日は『源氏物語』の参考文献をあれこれ読み漁り、今日は俳諧、特に芭蕉について文献を渉猟していたら、あっという間に時間が経ってしまった。そこまでしなくても講義はできるのだが、実はこういう時間が結構楽しいのである。つまり、講義の準備という口実のもとに、自分の好きな勉強をしているというわけである。これで給料がいただけるのであるから、フランス国家には感謝しなければいけないと柄にもなく殊勝なことまで思ってしまった。
 というわけで、発表原稿作成開始は明日以降に持ち越されてしまったのである。しかし、ここで注意しなければいけないことは、明日以降ということは、明日とは限らないということである。明日は、午前十一時から一時間オフィスアワー、今秋から日本留学予定の修士一年生が一人、日本語で準備する志望動機書のことで相談に来ることになっている。そして、昼から二時間「中古文学史」の講義。明後日はIKEAから整理戸棚が届くことになっていて、その組み立てに時間を取られ、組み立て後はその戸棚にしまう予定の書類等の整理に追われるであろうから、原稿執筆に集中することなどままならないであろう。その翌日金曜日は、午前中が「近世文学史」の講義で、午後は一週間の疲れを癒やすために休息する。したがって、原稿執筆開始は、おそらく今週の土曜日からということになるであろう。













心身景一如 ― 日本の詩歌における「世界内面空間」の形成

2015-02-09 05:16:00 | 哲学

 来月11日から13日にかけてCEEJAとストラスブール大学で開催される国際シンポジウム「「間(ま)と間(あいだ)」日本の文化・思想の可能性」に発表者として参加する。
 発表要旨は、昨年十二月十五日の締め切り前に主催責任者に送ってあるのだが、発表原稿はまだ一行も書いていない。いつものことである。しかし、三月二日が原稿締切りであり、しかも日仏両語での提出が求められている。それだけではない。恐ろしいことに、今更のように気がついたのだが、今月は二月である。つまり二十八日までしかない。ということは、締切りまで残り三週間しかない。この厳然たる事実の前に衝撃を受けているというのは嘘であるが、またしても追い詰められたような気持ちで原稿を書かなくてはならないことに、いささかうんざりしている。すべて自己責任(私はこの言葉が大嫌いである)なのだが、目の前の差し迫った義務から目を逸らしたいのが人情というものである(そんなことは誰も言っていない)。しかし、昨年九月に参加打診があったとき即座に進んで参加を希望したのであるから、何が何でも締切りには間に合わせないと。幸いなことに、二月最終週には一週間の冬休みがある。そこに勝負を掛ける(大げさなんですよね、いつも)。
 というわけで、今日からこのブログの記事は、その原稿の覚書となる。日仏両語で原稿を書かなければならないときは、仏語で先ず書くことを原則としているが、今回はブログで日本語草稿をこつこつと書き継ぎつつ、その影で(別に疚しいことをしているわけではないのだが)仏語版を作成することにする。
 発表のタイトルは、今日の記事に掲げたとおりである。肝心な中身の方であるが、シンポジウムのテーマに沿った発表内容であるかのように見せかけておいて(別に人を欺くつもりはないのだが)、問題としては哲学的にはかなり大きな主題を背景としており、かつ方法的には新しいアプローチを試みるという、野心的なものになるだろう(って自分で言っているだけです)。
 以下が発表要旨である。

   一日物云はず蝶の影さす 尾崎放哉

 詩人は、小さな部屋の中に独り座っている。その部屋は、詩人が寺男として働いている寺院の中にある。部屋の障子は閉めきってある。その部屋に終日黙していると、ある瞬間、障子に一匹の蝶の影が映る。そして、次の瞬間には、消える。無為に過ごした一日の終りに訪れたこの光景の中で、障子は、室内と外界とを分かったまま、その両者を一つに結ぶ媒介に変容する。かくして、蝶は、詩人の内面空間を横切ったのである。そこにはもはや「身体を限界としたいかなる断絶もなく」、蝶と詩人とは一つの〈間〉において結ばれる。その〈間〉には、「純粋でとても深い意識の唯一点」があるのみである(リルケ)。
 リルケにおいてきわめて重要な概念である「世界内面空間」(Weltinnenraum)の好適な例と思われる放哉の句についての上述の評釈を出発点として、私たちは、日本の詩歌において、〈心〉と〈身〉と〈景〉とがいかにひとつの〈間〉を形成しているかを問う。