こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年5月25日 日曜日 暮らしの風景 ~二番目がいいんじゃない~

2014-05-25 23:22:42 | 雑記帳

疲れが取れないのは今に始まったことではなく、365日大抵心身のどこかには異常をきたしている。
だからといって、考えても仕方が無いので、今週も何も目的決めずに外に出て、風に吹かれてアテどなく。

昨日土曜日は、迷路をおもむくままに歩いているうちに京島へ。
再開発で丸ごと潰された地、それにイナカモンが集合するスカイツリー接近を回避しつつ、商店街に入り、人側に主導権がある世界に逃げ込む。

お花屋さんのおじさんと話しながら、ピーマン、ゴーヤ、朝顔の苗を買った。
グリーンカーテンを巡って「ああ、それじゃダメだ。もっとこうした方がいい。」とおじさんにアドバイスを貰う。

風はさわやかだが、太陽の陽射しはきつし。酒屋さんに入って、おばちゃんに『好きなモノ、いくらでもどーぞ』と云われ、お互い笑い・やりとりしながら、小銭入れからお金を出す。
冷えた缶ビールを持って、田丸神社の境内の木陰に座って呑んで休憩する。
何かくれよ、と鳩ポッポたちが近付いてくる、午後の昼下がり。

ビールをグビグビやり・ノートにペンを走らせつつ、ついぞ商店街ですれ違った巨体の方は、俳優の渡辺哲さんじゃないか?と思っていた。
「まさか。。。なんで、土曜の昼に、渡辺さんがこの地に居るんだ?」という疑問はあるが、あのカラダの大きさ、福耳の大きさ、気取らなさは、どう考えても。。。などと思ってしまう。

結論は、他人の空似だろうが、昨日の晩、とある動画サイトで、渡辺哲さんの出ている2時間ドラマを見てしまう。

【渡辺哲さん】
自分は、B級ドラマが好き。
「B級なんて失礼」という方が居るが、過去にも述べたように、深く考えすぎず、ある程度起承転結の道が想定されている安心感がある。

毎週、そんなサスペンスの中で、必ず誰かが殺される事件が起きている。
だが、「あくまでフィクションなんですよ」という往年のパターンを踏んでいるから、そのような血なまぐささは所詮架空と思える。
このことが重要であり、エンターテイメントゆえにB級である必要がある、と考える。
どこかのメイン(A級?と一応された)ドラマを巡って、ああだのこうだの。。。とどっちもヒートアップする「一部のみの方々」が居るが、一切関心が無い。

さてさて、自分が見た2時間サスペンスだが、渡辺哲さんだけではなく、中原丈雄さんまで出ていて、楽しめる一作だった。
名脇役である蟹江敬三さんが、唐突に亡くなったのには唖然としたが、お二人には、今後も味のある役者として芝居をして頂きたい。

【中原丈雄さん】
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2014年5月22日 木曜日 暮らしの風景 ~雨ニモマケズ~

2014-05-22 21:52:20 | 雑記帳

「すっかり消費フル回転させろ」社会では、石油を使ったプラスチックゴミだらけ。
それは、他人事では無い。己も例外ではありえない。
何かを買いに行って、「そうではないモノ」にぶつからないようにすることは、もはや不可避である。

むしろ「プラスチック使い捨て容器を避けたモノ」を手に入れる、その熱心さだけで疲れてしまう。
エネルギー量が少ない自分は、そこまでの根性が無いので、ある程度のところであきらめている。

***

「もったいない」という想いが心の中にあったとしても、時間や諸条件が環境の方から迫ってくる中、一定の妥協無しには生きてはいけない。
決して0か100かでモノを判断してはならないし、果たして「もったいない」とよぎる心境と、自ら行う行為・行動が、地球環境とどのような回路で繋がっているのか?は明確にはなっていないのだし。
そう言い訳をしながら。

追記:過剰に罪意識を抱く日本人へ、抜け道的恩赦としての装置が「リサイクル」という用語となっているのは事実だろうし、これまた自分も例外ではない。

***

さまざまな書・文筆で、ライターさんが指摘している通り、今盛んに「エコ」とか「環境・・・」と言う手合いの半分はウソなのだろう。
よく「環境系」を打ち出した展示会に向かうと、一服付ける喫煙場所で、主催参加側の連中が話す内容が聞こえてくる場面に出くわす。

その会話に聞こえるは、さまざまな企業の雇われりーまんたちの本音。
「カネの源泉として環境ビジネスに関わっているだけで、実は・・・」という類のもの。

自分は見に来た観客であるのに、そういう人を目の前にして、内実を吐露してしまっている状況。
それが意味するのは「みんな、本当のことを言えないだけで、そういったことが、この世にはあふれている」という「現実」の一端を示しているに過ぎない。
お互いの化かし合い、はヒト社会の底に流れるカルマで、変わりようもないのは今更だが。

「お前も、他人の事は言えないだろ?」と言っているのだと考えた方が良い。

自分「そうだね。キミの言う通りさ。
でも、ついクチざわりの良いコトバを衣(ころも)に着て、偽善者のフリをしたくなる。そのクセは、自分だけとは思わない。」

***

あまりにひどい我が”ゴミ屋敷”も、これから温度が上がってくるには耐えられないだろう。
という状況になった今週。
数年ずっと重い心身だったところからやる気になって、掃除を少しずつ進めている。

部屋の細くなったケモノ道は、その道幅が広がって、次第に広場に近付いていく。
「掃除も疲れるから。1日約1時間を上限にね。。。」
などと、自らに「キリ」を付けながら、無理の無い程度でちょびっとずつ片付けている。

***

毎朝は太陽が昇る時刻が早くなり過ぎてきて、スズメたちの会話も伴い、4時半から5時頃に起きてしまう昨今。
太陽とすがすがしい涼風を浴びながら、プランターに植えた植物に水をやり、お茶を淹れて飲む。

・・・と書くと、あたかも「健康病」なる妄想に憑りつかれた現代病者のようだが、自分の場合は、確かに朝は今迄に無いモノを感じながらも、実のところは寝不足で不眠気味。
眼痛に老眼と目のかすみ等々含めて、日中変動が激しい。

日中変動が激しい。。。と下手に言うと、
「今年は、日によって温度変化の度合いがひど過ぎるから、それがカラダの負担・疲労になって溜まっている。」
誰もがクチを揃えて言う。

こちらは「それが要因では無い。天気の方は、今までの気象データー解析などしていないから、果たして今年だけの問題なのか?は、自分には分かりかねる。」としか言えない。

***

朝まだ寝たいが二度寝出来ず、思い立って最近、やっていることの一つ。
茶葉で淹れたお茶を冷まし、ペットボトルに入れて、持ち歩くこと。
どんな淹れ方が、美味しい冷や茶になるか、を毎日試行錯誤している最中。

伊藤園が持っていたお茶の領域に一石を投じたのは、キリンの出した生茶だろうか。
あの甘味と美味しさは魅力だが、やたらとペットボトルを買うのを避けたいのもあり、こうして何かをボトルに入れて持ち歩き出したのはここ数年のこと。

洋服みたいに、ボトルを包み込むように着ているモノは、仕事仲間がくれたカバー。
庶民的なのにマイナーな、定時が来ると店を閉める「コンビニエンスストア」の景品。
折り畳み傘などを納めるにも使えて、実に重宝している。

***

今朝は、ものは試しと、こないだ食べたカボチャのタネを土に埋めてみた。
まずは、しばらくお水を上げて様子を見るべし。
行く露地の道で、あじさいが色付いてきたのに出会う。

ところが、夜になって、”時”を見誤った。
この5月中旬になって、やっと余地が産まれたので、今日も早々に仕事場を出て、帰るはずが。
日本の「場」が形成する「空気」に縛られ、風吹く外野に出る時間を数十分遅らせてしまったのだ。

外に出たときは、空は灰色なれども、おだやかだった。
しかし、数百メートル歩いた所で、大粒の雨が突然ぼたぼた。
そんな具合に重く落下してきた。

傘をさして、いつものペースで歩く。
だが、である。
数分後、カミナリが鳴り、傘を持たぬ者たちが走る。

地面に叩き付ける雨が、まだら模様を付けて路面でダンスし始め、そこに強風が追い討ちをかけ、先へ進もうとする自分をはばむ。
1km程度の道を歩けば、クツから頭までズブ濡れ。

傘など、何の意味も無い。
上着を持たずに過ごした一日も、あっという間にさぶいさぶい温度へ。
自然と細野さんの「いつも通り雨にゃ、いつも通り雨にゃ・・・」と、相合傘のくだりが浮かぶが、目の前の光景は数百年後のような隔世感。

おしっこを漏らしたような状態で電車に乗れば、びしょ濡れのリクルートスーツの学生女性が、身になりふり構わず、病人のように「すまほ」の画面に異常な親指連打をし続けている。

***

「数十分前に、さっさと仕事場を上がった」として、じゃあ。。。と仮説を自らに問いてみる。
その数十分のスライドは、結果その後、もっとデカいスコールとしてやってくるかもしれない。

3・11含む過去の有事に当たって、どう人は当たったのか?かまで考えてみた。
それはどこまで行っても正解は無い。しかし、暗黙のルールや空気に流されず、自らのカンにのみ頼るべきだ。
そうすべきだ。などと、今日のところは思った。

帰宅して濡れた衣類にほどこしをして、冬用の上下を着込み、缶ビールのピンを「カコン」と指ではねた。



■パブリック・イメージ・リミテッド 「ディサポインテッド」1989■
阿呆と馬は、決まったコースをひたすら走る
オレはおどし付けられて、ゆかに積もったホコリみたいに、小さくなってる

アンタはやすやすとペテンを実行する
まるで、カネもうけのための慈善事業

けしからん連中を、世間は毛嫌いするものだが
とっかえひっかえ仮面をかぶって、次から次へと、みんなを驚かせて

アンタはやすやすとペテンを実行する
慈善事業とやらと、おんなじだ (ジョン・ライドン)
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2014年5月19日 月曜日 暮らしの風景 ~大荒地に生きる草~

2014-05-19 23:55:17 | 雑記帳

だらしない自分は、冬の間、プランターが自然の成すがままに放置していた。
そんなうちに、どこからタネが舞い降りたのか?茎のしっかりした植物が育っていた。
どこかから、こんな安息の地に辿り着いて、誰にも邪魔されずに居られるなあ~、とでも思ったのだろうか?
こちらが、何をほどこすわけでも無い、荒れ果てた寒い寒いベランダで、自らのチカラで冬を超えた植物。

まっすぐと姿勢良く、どっしりとした構えで上に伸びた様。
昔聴いていた、高田みどりさんが居たユニット「ムクワジュ・アンサンブル」のジャケットイラストを思い出す。

花や植物を見るのが愉しみな割には、名前を知らない自分。
この植物は、いったい何という名前なんだろう?と今日、調べてみると、オオアレチノギクというものらしいことが分かった。

話す人によっていろいろと語り口は変わるのだが、田畑を耕す農業の人からは、害として言われている植物らしい。
まあ、つまりは「世間さま」で語られた用語「雑草」であり、人によっては有害植物となっている訳である。

自分はどうも「雑草」という用語が好かない。
別段「えころじすと」や「ひゅーまにすと」では無いが、排除によって成立し得る、人間さまが闊歩する此の世の有りようを示す、本質的差別用語の一種だが、植物に貴賤はなかろう。

ただし。。。
このキクが場を占めていて、かと言って、追いやることも出来ず、キュウリ、ナス、ゴーヤといった苗を植えようとしていた。
悩んだ挙げ句、空いた場所に当て込むように、苗を植えた。

***

しかし、オオアレチノギクとは、何ともアウトローで良い名前。
漢字で書くと、大荒地野菊となる。よくのっぱらになった場所に生殖する植物らしい。
しばし眺めていると「荒地であろうが、生き抜くぜ」。
といったたくましさは確かにあるのだが、ミドリの色合いや葉っぱが茎から描くカーヴなどには、本質的には優しい感じを覚える。

最終的には2メートル近い丈まで伸びるらしいので、さてさて、どうしたものかなあ。。。
と思うが、しばらくは一緒のプランターで、それぞれが育つ様を静観して行こうと思っている。
みんなケンカをしないように、頼みますよ。

***

パーカッショニストである高田みどりさんらのユニット「ムクワジュ・アンサンブル」。
その1枚目アルバム『樹・モーション』ジャケット(上記)は、1981年・雑誌ミュージックマガジンのモノクロざら紙で見て、中身を想像し、聴いてみたいなあ。。。と思っていた。

その音に出会えることになったのは、翌1982年春、高校生になった頃のことだった。
FM東京の夕方4時頃、「新日鉄アワー・音楽の森」という番組があった。
立川清登(たちかわすみと)さんの、きびきびとハリのある声が心地良い、クラシカル寄りの番組だったが、そこに高田みどりさんがゲスト出演することになった。

録音したカセットテープをようく聴いたが、ブライアン・イーノが発見した、此の世のエアポケット「ミュージック・フォー・エアポーツ」に始まり、その源泉の一つであるエリック・サティ、そして、そのような時代の流れの中で結成したムクワジュの音楽、という具合にして、奥深い音と会話が、まさに森のような放送となっていた。

■ムクワジュ・アンサンブル 「ホット・エア」1981■
ムクワジュ・アンサンブルは、長い間、このカセットテープで聴いてきたのだが、CD時代に入ってから、ジャニスで発見した赤いジャケットのアルバムを購入した。

音楽ジャンルとかカテゴリーという概念に囚われず、音そのものの探索をされるのが好きな方には、是非おすすめしたい。
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2014年5月7日 水曜日 ~休み明け徒然日記~

2014-05-07 23:55:06 | 雑記帳

4日も休みを取ったため、寝・起きがズレてしまう。(安心して休めない)昔の日本人的だ、というより、元来は不精な性格なので、そうなってしまう。

朝の寝起きは想定通りしんどかったが、好天の差し込む陽射しが気持ちを救ってくれたような気もする。
都内にて仕事、昼食の後、午後地方に向かう。
室内で熱心に語るうち、外に出れば宵の空。

帰路を辿るガラガラの電車に座って、パブリック・イメージ・リミテッドの近作「ディス・イズ・PIL」を聴いていたが、気が付いたら、眠りに堕ちていた。
車内で眠るなどは、近時無いことである。
どうやら、休んだ分、疲れが溜まるという逆現象と捉える。

暮らすためだけの買い物をしながら、ふらふらと家路を歩く。

***

すぐエネルギーが枯渇して、次の日に影響する性分は理解しているので、平日のお掃除はほどほどに、ということは理解していた。
しかし、本当のゴミ屋敷は「あかん」とはわかっても自堕落だった。

最初は単純に「今日は、真っ黒になったオナベをキレイにだけしよう」と思っていたのが、それが済むと洗い場をキレイにし、買ってきた電球を取り替えると久しぶりの灯り。
「おお、イイじゃないの」という一方、灯りが照らし出したは、ゆかの汚さ。
そこから、雑巾がけ。。。

結局、1時間半も掃除に費やしてしまった。
夕ご飯を作る気力は、そのお陰で無くなってしまった。

掃除をする間、持ち歩いているミニ録音プレイヤーから流れる、ピンク・フロイドの「アニマルズ」、「原子心母」を聴き切ってしまった。
やはり、自分は「狂気」「炎」「鬱」がしっくり来る。

「アニマルズ」。ヒプノシスのジャケットは、とてもとても素晴らしいが、デイヴ・ギルモアのギターのみで乗り切った、という感覚で、未だにしっくり来ない。「シープ」のイントロ部分は好きですが。。。
「原子心母」も似ており(好きな曲はありますが)歴史的だとは思えど、やはり組曲の大仰さを愛せるのは、本当のプログレッシヴ・ロック時代を体現し得た世代の方。
一歩遅れて、追体験の形で知った自分には、十分な理解が及ばない。

音楽が心底好きな人ならば、それぞれの想いで良いと思っているが、自分には、今聴く「原子心母」組曲はかなり古いものを感じさせてしまう。
「狂気」「炎」が永遠にすたれないのとは距離がある。
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2014年4月18日 金曜日 くらしの風景 ~Round About Midnight~

2014-04-19 00:41:34 | 雑記帳

「過去あった日々の躁鬱の波とはもう無縁」と、ツッパリ・いきがってきたが、その言い方は真実ではなく、やはり「小波」はあるものだ。
「大きなヤマを越え・谷を越え、ということは少なくなった」だけのことだが、
それ自体が有り難いことであり・幸福かもしれない、と思えることが、最近・時々ある。
そんな最近は、良い波間のバランスにあるのかもしれない。

昨日・今日有った出来事。
些細だけれども、一握りの大事な幸福。

***

仕事にも、社会的に所属する企業にも、なんら価値を見いだしていなかった2013年が3月末に終わった。
されども、日本政府が政策決定した消費税率引き上げに伴う「駆け込み需要」は、自分の仕事への影響度はとても強く、混乱を超えてパニック状況のまま、3月末では終わらなかった。
今も尾の引きずったことへの終戦処理は続いている。

思えば、2013年10月1日、安倍首相の消費税率引き上げ発表する画面をリアルタイムで見たのは、兄と一緒に、入院する大事なお袋さんの横に座っていたシーンの中だった。
あれから半年が経った。

何とかミクスとやらで景気が良くなった、と一部で言われていることに自分は真っ赤なウソと違和感を抱きながら、日々働いてきて、挙げ句は3月物流網混乱も含めたパンク状態に多くの人と共に巻き込まれた。

状況的には良くはない。
はずだった。

***

4月に入り、世間様同様、人事異動のヤマと、新人社会人のヤマが作り出す、カオティックで不快な空気のなか、目をそらして、花とネコと下町の街並みばかりを見つめるようにしてきた。
それは、ひねくれた自分の性格だったり、他人への嫉妬・怨念が作り出した妄念から見える視界によるもの。

自分は所属する「企業」にも「制度」「体制」にも不満を表明し、ひたすら背中を向けていた。
無二の友MZさんに言わせれば「世の中は不条理のヤマだから、正義などはない」。
「まあ、四十代になってまで、そんな子供だましのヤボな希望などは抱いていないよ。」と、いつも返す。

しかし。。。
かつて、公私共に苦楽を共にした、先輩お二人が三回目の上司となって戻って来た。
モノの見方・観点の豊富さを教えてもらったり、「これ読むとイイよ」と「本当のこと」が書いてある書籍を教えてもらったり。。。
今、出来損ないの自分でも、生きていけるすべを教えてくれた2人。

***

「何よりも、自分と家族のことが優先。仕事は三番目じゃないとダメだよ。」
先週、久々に外で、片方のKさんとビールを呑んだ。
シャイで優しいけれども・芯が通った、大好きなKさん。

話しながら、そう言われて何だか心がとても安堵した。
「そうなんだ。この人は、自分にとってのセラピストなんだな。」と気付いた。
フレームを描いて、自分の立ち位置を認識させてくれる人。

自分なんか必要とされてはいない、と思ってきたし、たいていの他者はいい加減なことやおべんちゃらしか言わない「平気でウソをつく人」。
そう思ってきたけれども、「(公私共に、キミがココに)居てくれることは有り難いですよ。」と言われて、意外だったりもして困惑した。
最近、こういうことを言ってくれるヒトが居て、単純に「生きていて良かったな」という瞬間が多くあった。

***

「不夜城」と揶揄され馬鹿にされる、自分の所属するセクション。
プロレスラーでもあるまいし、仕事を体力勝負としてしまったら、そこには絶望しか無い。
しかし、それは長たる人によってガラリと姿を変える。

昨年、あそこはブラック企業だのホワイト企業だの・・・相変わらず乱暴な物言いをするヤカラが居たが、黒も白もない。
あるのはそれぞれの「在り方」であって、そこには人同志の運命だったり・偶然だったりするものが作用している方が濃厚と、私は考えている。

しかし、一方では、システムとITにだけ振り回されて、あやつり人形となって、ひたすら巻き込まれていくのなら、ボクらは生きている価値をそこに見いだすことは出来ない。。
ただ馬車馬のように走らされて死んでいくのは、ゴメンである。そこは確かにそう思う。

ただ、だからこそ、そこに人がいて・人の智慧というものがあるのだ。
と、今夜の私は考える。

***

手塚治虫の「鉄腕アトム」に憧れたみうらじゅんさんらの世代、そして、YMO・クラフトワーク・プラスチックスetcの描いた、ピコピコするテクノポップに、空が広く・未来が見えた少年時代を過ごした自分らの世代。
そんな未来は、既に来てしまい、そして、通り越した。未来と言われた場所が、実は地獄だった、という明らかな事実に気付いてしまった現代。

そんな中、先輩お二人が体力でも拘束時間でもなく、らくーに穏やかに状況を見ながら、全体を微調整しつつ、上手にマッピングして・組織を「死」から「生」とするために整えていくさまを久々に見て、目の覚める思いがした。

***

肝臓を壊して以来、この4年近く、心身ともに傷んでいたのもあり、外で呑むことを避け、形式的な会合にも一切出席しなかった自分。
そんな自分が久々に、昨日のささやかな歓迎会には自らの意志で参加し、よく呑み、よく語り、夜明けまでを過ごした。
倒れるように眠り、二日酔いのまま、一日を仕事場で過ごした。

他者たちとフリーな関係のなかで手を結びたい、という想いは果たされないと思っていた。
不思議な和・輪は、いくら「絆」というウソのプロパガンダを強要しても、それぞれの中からは産まれない。
それが今、自分の内発的な奥底から「ここ」に湧き上がってきている。

ありえなかった心情が産まれている自分。
そういう空気を「体力・気力」ではなく作り出す能力のある人。そんな人とまた過ごしながら、いろんな話をしたいと思っている。

PS:実は、そうは思っても、いろいろある。
毎年恒例のことだが、年度がわりのこの時期は、とんでもない過密スケジュールの中、予算分解やら、会議やら、その資料作りやら・・・。
このゴールデンウィークも悪魔の季節として、恐れをなす日々だが。

二日酔いでフラフラしたグロッキー状態のまま、早く横になって眠りたい限界の22時を超えて、時間とガソリン切れ。
昔と同じように、Kさんと傘をさして、お話しをしながら、2人並んで駅までの寒い夜の道を歩く。
お互い、この数年でずいぶんと白髪が増えたな、と思う。(私は頭の毛は無いが、ヒゲに白髪が進出激しくなりました。)
思えば、先輩2人は、兄とほぼ同い年。私は実兄とは違う、幻の兄の像を2人の背中に感じているのかもしれない、と思った。

すべてが良いことなんかは無いけれども、何らかのきっかけで、このブログという交差点で出会う、視えない仲間の方々の身にも、少しだけでも幸福だったり、安堵があることを祈ってやまない夜。
人生、悪いことばかりじゃない。
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2014年4月16日 水曜日 くらしの風景 ~月光の夜~

2014-04-16 22:39:22 | 雑記帳

タマシイはア然としたまま、目の前をさまざまモノが、高速で通り過ぎていく。
時間も、季節も。
その間合いを計測しながら、日々は容易にたやすく過ぎてしまう。
その哀しみ。

ブログなんざ誰でも、リミックス構成できる。。。などと、すくったはずの砂が指の間から落ちていく感覚を覚える。
しかし、それで、更新機会が少なくなった訳ではない。

目の前を高速で通り過ぎる事象は、いっときのたぶらかしに過ぎない、と思いつつ、場末の温泉場でピンポンのような「ついったー」的即時反応はよろしくない、という想いは、結果的に沈黙せざるを得ないところに向かう。

***

昨日の深夜、まんまるのお月様が浮かぶ中、びっこを引きずり帰る。
そんな折、長い付き合いのパソコン「マイVAIOちゃん」を付けると、起動しなくなった。
さまざまな手をほどこし、やっと起動を取り戻した。

しばらくおろそかにしていたソフトなどのアップデートをした。
しかしどうやら、これが引き金になってしまい、外付けハードディスクが反応しなくなった。
やむなく仕事用アイパッドで解決策を調べるが、結論に至らず。

もともとが深夜帰った中の作業。
闇の中に消えて視えなくなったデータが、まるで空中に解けてしまった感覚に呆然とする。

自分の備えの不足に若干嘆きながら、写真家・荒木経惟(のぶよし)さんが言う言葉を思い出した。
「デジタル写真なんてえのは、デリートキー押したら瞬時に消せるのが、イイとこなんじゃない?それ以上の価値は無いね。」

敬意を抱く藤原新也さんも森山大道さんも、時代の変遷の中で、デジカメを受け入れ、画像加工やトリミングなども作品表現の一部として取り入れてきた。
そんな中でも、荒木さんはフィルム撮影とプリントにこだわり続けてきた。
荒木さんの言葉は皮肉ではなく、もっとカラッとしたもので、悪意は一切無いのだと思う。
だが、その言葉が妙にリアリティを持った夜だった。

***

パソコンを夜に閉じたのは、いつ以来か?
今まで、CDからパソコンにmp3で落として聴いていた所から、CDプレイヤーで音楽を聴く。
周囲に積み上げられた本をめくり、文字の連なりをじいっと眺めながら、脳をめぐらせる。

【細野さん 「メディスン・コンピレーション」】
ラジオを付ければ、一番電波の強く・聴こえやすいNHKの「ラジオ深夜便」を枕元で聴く。

疲れ過ぎているせいか、明かりは消しても眠りに堕ちず。
明け方4時を過ぎた頃でやっと記憶が途切れた。
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2014年4月13日 日曜日 くらしの風景 ~忙殺を離れ、島を回遊し・佇むヤドカリ~

2014-04-13 20:26:54 | 雑記帳

日々、自分(=一個人)をケムに巻こうという社会事象が、幾多も起きて、不明瞭な視界であるのは、何も今始まったことではない。
過去も今もようくめくる寺山修司さんの薄いボロボロになった文庫「ポケットに名言を」をめくれば、エンピツのアンダーラインの下に思いはせる言葉。
『人生は夢にして、その外形は・・・』

かつて働いていたエネルギーはもはや枯渇し、土日はよほどで無いと働かない。
催眠世界を離れて、正気に戻るために、社会という汚泥を振り払うために。
12日 土曜日

昨日は、偏ってしまった体内かたちんばを補正すべく、鳩の街にある足裏マッサージに向かう。
ぶらぶら島めぐりをしながら。

しかし、施術を受ければ、歩けないほどまで悶絶す。
あれ程叫んで痛みを覚えたのは、久しく無かった。

東洋医学を唱える先生と話しながら、如何に西洋医学が薬なる麻薬をばらまきながら、多くの命を公的に殺してきたかを話した。
薬で肝臓を壊し、今に至る経緯を語りながら。

とは言え、歩いて帰る夜道も難儀した。
痛みから汗だくになり苦しんだせいで、早々に眠りに堕ちた。

13日 日曜日
このところ室内に居ると気分は堕ちていく一方なので、何はともあれ外に出る。



ぶらり歩き、写真を撮り、公園で佇む
花やぐ中で、ネコと出会いカリカリを上げる
足裏マッサージで、ロクに歩けず、びっこを引きずりながら

ローギア以下の自足で歩くと、普段見えないものが見えはじめる。
段差のある道の苦しさ、手すりの有り難さ、など。

独りで出来ることは限られる。
よく喫茶店で勉強、執筆、アタマの整理をする人は多い。
場を変えないと、見えないことの多さ。

びっこを引きずり、公園のイスに座って、空気を味わう。
文章をメモし、イヤホンを付けてラジオを聞く。
鳩たちは、地面をついばむ。
となりのお年寄りの会話、公園にたわむれる家族の姿。
空、雲、樹々、花。
外に居ると、悪夢の妄想は吹っ飛ぶ。



■ジャパン 「スティル・ライフ・イン・モービル・ホームズ」1981(オリジナル・ラストアルバム「ブリキの太鼓」より)■
ときおり、部屋を歩き回る
ときおり、ひどくさみしくなる

この異国の地を離れたい
ボクは、何も知らなかったんだ

いつでも泊まるところはあったよ
「移動出来る家」で、計画をたてよう

波に揺られて、ゆっくり進む小舟
はるか沖合いに浮かんでいる

この国のくらしがどんなものか?
ボクは、いままで知らなかったんだ

建物や家を建てる計画をたてよう、「移動出来る家」で

計画された人生、ボクの人生
「移動出来る家」で送る、静かなくらし

野生の生活のたてる音が、あたたかく乾いた空気を満たす
南国の熱にあぶられて、ねじれて燃え上がれ
裸火のように

ボクたちが海に乗り出そうとすると、天から叫びが響いてくる
それは昔慣れ親しんだ、祖国からの呼び声

キミが泊まるところを探してあげるよ
「移動出来る家」で計画をたてよう



詞 : デヴィッド・シルヴィアン
曲 : ジャパン
プロデュース :スティーヴ・ナーイ&ジャパン
エンジニア : スティーヴ・ナーイ
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2014年3月29日 土曜日 くらしの風景 ~迷いだらけの雑考~

2014-03-29 13:24:32 | 雑記帳

電車に乗ると、処世術本を読む人をよく見る。
それは、他人事ではない。
いまだに若いも老いたるも、その手の本を読んでしまうのは、いくつになろうが、結局はその日・その状態のありさまが揺らぐゆえ。

「三十にして立ち、四十にして惑わず」という言葉があるが、人は死ぬまで迷いながら進むものだろう、と五十に近しわたしは思う。
惑わず、どころか、毎日毎日、迷っている。
ただ、経験を踏んだ分だけは、幾多の回路が出来たけれど、だからといって、それで済んでいるわけでもない。
いくら「学んだ気になっても」、それは翌朝には崩されている。そういう具合だ。

画家・大竹伸朗さんの言葉がよぎる。
「十代でロンドンに飛び出して、そこでスクラップなるものに出会い、体内の何かが動かされて。。。そこから20数年創り続けてきたけど、何一つ進んだ気がしない。
40代なんて、しょせんガキみたいなものだ。」
別のインタビューでは「死ぬまでに、たぶん自分は思っていることの半分もカタチに出来ないで終わるだろう。」

描き散らした1990年のスケッチブックより

絵、というのを題材に挙げると、
「何か作ってやろう」という「野心」ではじめると、大抵は予定調和のつまらないものに行きつく。(これをAと置く)

わけなんかなく、イタズラ書きで始めて、いつのまにか熱中した。
という場合のほうが、断然面白い。(これをBと置く)

じゃあ、客観視する他人は、AとB、いずれに興味を抱くだろうか?
それはケース・バイ・ケース。
ただ、当人に意味があると思える時間を過ごしたのは、断然B。どんなに他人にとって、姿カタチが「愚」であろうと、当人にはBにこそ意味がある。
逆に、Aがほめられたことに、あるいは、それが「カネ」になったことで、Aの手法に専念する。

経済ばかりが優先される今の現代人は、そこでAに飛びつく人が多いだろうし、それを「ビジネス」とか「ビジネスマン」と自称してほくそえんでしまう。
絵で言えば、例えばラッセンのリトグラフだったり、要は想定内。
そこで迷いを捨てて、ビジネスのみに走った瞬間に、彼はもはや画家ではない。

***

じぶんは画家ではないが、そういった経済側からのインプットと無縁ではない。
それは、このブログに載せた文章・イタズラ書き・写真などなど、明らかにゼロではない。
その辺に居るオンナが、色気を出して、意識的犯罪的に、胸の谷間を見せたり、超ミニスカートで挑発するようにして、「わたしを見て、わたしを買って」というのと変わりない瞬間。

「だからじぶんは駄目人間なんだ」と思うとき、エセ野郎と自嘲したりもする。

ただ、他人の目線とじぶんの目線が決して一致することはない。
ゆえに、他人がいくら「Aが良い」と言っても、「いやいや、ボクの気持ちはBなのですよ」と交わりえぬ平行線が存在することがある。

***

そのへん本物のアーティストというのはさすがで、
ホルガー・シューカイ先生や埴谷雄高さんなどは、描いたものを「しばらく寝かせておくんだ」と言うし、似たようなことは多くの人が語っておられる。
写真家の森山大道さんは「写真を撮っても、すぐには見ない。1年かそこらして見たりすると良い。」とも言っていたりする。

そこにあるのは、どうやって「じぶんという当事者が関わった事象を、すこし頭を冷やして感じられるか?」といったことだろうか。。。

ブライアン・イーノ師などは、別の手法として、偶然性をそのまま音楽に持ち込むために、いろんなやり方をする。
録音したものを逆再生やテープループにしたり、切り刻んだり。
「ディスクリート・ミュージック」以降のように、装置をセットして、あとは機械まかせにして、じぶんをその中に入れないようにして、出来上がりを微調整させるだけにとどめるなど。

***

ウィリアム・バロウズの「カットアップ」なる手法などを話し出すと永遠に終わらないので、ここでいったんやめる。

本当なら、最初オリビアへの想いを再度つづるつもりだったのに、別の方向に話しが行ってしまった。
「迷いも、また愉し」。
いつもそうなら良いのだけれども。

三ノ輪のおばあちゃんが、とっくり1本、熱燗が入ると「どうやって、人生行路を渡っていくのかね」というクチぐせ・定番せりふが出たのを思い出した。



■クリスチャン・フェネス&坂本龍一 「Haru」2007■
昨夜、長年過ごしたなかまの送別会に行った。
ついつい、今だから言えた話しが面白くて、内臓不完全なじぶんを忘れて、深酒。
おぼつかない帰路の足取りの中、深い闇に桜が花を開かせていく姿を見た。

死んだように1時に寝て、12時近くに起きた。10時間も寝たなんて、いつ以来だろうか?
やけに色付き鮮やかな夢をたくさん見た。逢ったことの無い(なかまの)親父さんを招いて、島への道を3人で歩きながら、ここはこういう場所なんですよ、と案内していた。

夢か?まことか?そんな不思議だけど、安らかな時空は、まだまだこれからも出会えるし、突然舞い降りるはずだ。

食いしん坊だった、まみちゃん。忘れ得ぬ相棒との、いとおしく幸福な何気ない日常。
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2014年3月25日 火曜日 くらしの風景 ~夜明けのすきま~

2014-03-25 22:59:07 | 雑記帳

ちゅんちゅんちゅん。
このところ、夜明けの時間が早くなった。
おかげさまで、このところは、鳥たちの鳴き声で朝起きる日々。

調べてみると、元旦には6時51分だった日の出も、今日3月25日には5時38分。
年度末最終日の3月31日は、5時30分になるらしい。

***

朝起きてダルさを感じるのは、昔から慣れてしまった悪癖であるが、比較的温かく、鳥たちがうれしそうに鳴いているのだけは救いである。
しかし、さすがに5時台なので、再度「もう少しだけ寝よう」と思ったが、二度寝が出来なかった。

このところ、睡眠導入剤を使わずに眠る日がある。
かつては無かったこと。
自分が服用している薬は、4時間すると切れるので、大きな影響は残さないものだが、それでも服用しないに越したことはない。
だがだが、まだまだ、睡眠導入剤を服用せずに寝て起きると、夢を見ている時間も長く感じ、眠りも浅く感じる。
それも「慣れ」だとは思うが。

***

今朝。
二度寝は出来なかったものの、せっかくの静かな朝だったので、脳が情報で満たされぬうちに。。。
と、ブライアン・イーノ&ハロルド・バッドの「鏡面界」を聴いていた。
この数十年で、何百回目だろうか。

そして、お湯を沸かし、濃い緑茶を呑む。いつもの幸福な一杯。

***

朝の電車にしばし揺られ、降りて川のそばを歩く。
すると、紳士な白い毛並みがモーニング服みたいな、ゆりかもめたちが、朝に泊まっている。
春を謳歌しているかのように、鳴きながら空を優雅に飛んでいる。

昨日の朝にはまだつぼみだったモクレン。
それが今朝、花を咲かせるさまを見た。

■オリビア・ニュートン・ジョン 「マジック」1980■
朝の電車で聴いていた1曲。

沈丁花(じんちょうげ)

モクレン
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2014年3月21日 金曜日 くらしの風景 ~春分~

2014-03-21 22:17:33 | 雑記帳

土屋昌巳さんの新譜が、昨年11月に発表されていたことを知り、先日購入した。
しかし、モノを手に入れても、なかなかそこに着手しないのがクセの自分。
新譜を聴くには、何かのキッカケ・導火線が必要なのは常である。

この1ヶ月以上続くクビと背中、腰のコリ。。。というより痛み。
それが、上にまで昇って、頭痛にたどり着いたのは、この2週間。
頭痛にまで来たのは久しぶりなのだが、必死にストレッチをするものの、容易に癒えない。
クスリを出来るだけ服用しない意志はあるが、リンラキサーを1つだけふだんより多めに服用するのだが、それも効き目がない。
要因を、持病の頚椎ヘルニアや仕事と結び付けて考えようと思うが、どうもそうではない。

そんな折におとずれた「春分の日」の祝日・休み。
土屋昌巳さんの新譜「スワン・ダイヴ」を開ける。扱いずらくて嫌いな「紙ジャケット」仕様。
朝に、2回繰り返し聴いた。
まだまだ、そんな程度では分からない。それはLPレコードを買った70年代末と変わりはない。

写真を撮りに街へ出て歩く。それ以外に、肉体運動をしないのは、もう十年以上。
朝、外の空が鮮やかだったので、むずむずして、珍しく計画を立てて、それを実行に移す。
神田に向かい、街を撮る目的と共に、「あんまさん」にマッサージしてもらうこと。

神田駅に降り立ち、適当に路地に、オモテ通りに、と繰り返し迷走する。シャッターを切りながら。
光と影が織り成すエクスタシー。
そして、マッサージに向かう。

施術をしてもらった方「相当ひどい状態でしたね。一時間の間に、やっとコリの塊がほぐれましたが。
右半身が前に出て、いがんでいました。」
自分「ふだんは、歩き回っているのですがねえ。。。」
施術をしてもらった方「いったんカラダの歪みにクセが付くと、後はその延長線上になって、進みます。
自己補正が利かなくなるので、来てもらって良かったですよ。」

横になって、気持ちよくて、時折眠りに堕ちながら、気付いた。
自分で自分を責めこみながら、小難しいことばかりを考えていたこと。

帰ると、再び「スワン・ダイヴ」を聴く。
はっきりしたことは言えないが、6曲目最後の「スワン・ダイヴ・パート2」が、自分の中に引っかかる。
スローな響きに始まり、土屋さんのギターが出て転調し出すときに、ついキング・クリムソンがよぎった脳裡。
鳥たちが空を舞っている。その声。

そういう今夜は、起承転結パターン化されていることが、自分に安堵を運ぶ2時間サスペンス。
ウソで塗り固められた偽装放送としてのテレビ番組。それをまともに見なくなって久しい。
そんな中でも、録画した2時間サスペンスは、最初から前提がフィクションであり、ゆるくて、心地良い。
昔も今も好きな、このチープさ。

何かを深く考える必要の無い時間。
それが、今の自分には必要なのだ。
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