こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2014年10月13日 月曜日 台風前

2014-10-13 20:42:07 | 雑記帳

台風が近づく。としたって、何か特別なことが出来るわけもないのに。。。と思いながらラジオ深夜便を朝5時まで聞いてしまった。そうして、島の夜が明けて、鳥が鳴き出した。イイ声選手権を競う鳥。

実際、雨が降り出したのは午後だった。
朝に寝て昼に起きる、普段ならありえない流れ。
そうか、今日は月曜だったんだ、と付けっぱなしのラジオは曜日の錯覚を抱かせる。

今日13日は台風が迫るから室内に居るべし、と勝手に”おきて”を自らに課していた。それも行き詰っていくので、傘を差して外に出る。

雨は次第に強くなる、と思えば、止む時があったりといい加減。
気晴らしに島を一周する。イヤホンからはラジオ「たまむすび」。

雨の日には雨の日の光景とおもむき。
ふだんはヒトが居る場所にヒトが居ない。
雨のせいで温度が低くなっていた。厚手のフリースを着て正解。

歩きながら、ずーっとどの喫茶店に行こうか?迷っていた。
こんな日は、系列店じゃダメで、その場に根付いた昔ながらの喫茶店。

雨をしのぎ、温かいコーヒーを飲みたかった。
邪魔なBGMもない喫茶店を探していた。

近くて遠い場所まで歩いたけど、回遊して戻ってくる途中のお店に入った。
前から入りたいと思いながら、入っていなかったお店。

私の風体にけげんな顔を示した白髪のマスターと奥さん老夫婦。
黄色いランプが満たすお店は広すぎず狭すぎず、室内は好みの調度品に囲まれている。

少しして、奥さんが木のとびらをカラカラと音をさせて開ける。
雨の外からキジトラのネコが入ってくる。そこにしゃがんで近付く。
「この子は、こちらで飼われているんですか?」という投げかけから、今このネコがここに至るお話が始まる。そうして老夫婦の固い顔がゆるむ。

いっつもこうだ。それは私が会得した数少ないコミュニケーション方法。
ネコを媒介として、一気にお互いが距離を縮める。

潤滑油となるキジトラさんは、大股を開いて毛づくろいをしている。
後から入ってきた夏木マリさん風の方が、年季が入ったタバコの持ち方で、ふうっと煙を吹かす。
たのんだトーストに付いたゆでたまごを、テーブルにコツコツと叩く。
キジトラさんは、そこを凝視して耳を右に左に動かす。

次第に雨はボトボトという音で強くなるのが、室内に伝わってくる。
皆それぞれの距離感を置きながら、時間がゆっくり流れる空間を自由気ままに動くのは、ネコだけ。
日が暮れだして、室内の黄色いランプがその明るさの強度を増す。


■エルビス・コステロ 「I Wanna Be Loved」■
アルバム『グッバイ・クルエル・ワールド』1984より


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2014年10月10日 金曜日 月が一休みする夜

2014-10-10 23:57:38 | 雑記帳

2013年10月10日
本人がみずからを「じぶんもおぢさんだから、おばさんだから」と、容認するのはいつだろうか?
ヒトぞれぞれだが、誰に言われようが言われまいが、認知レベルならまだしも、さげすみ出す行為・だらしない呼称を平気に率先して“自ら””本気で”言い出した瞬間、悪趣味な堕落が始まる。
そのような言行は、少なくとも、今の私にはアウトを意味する。

信用可能な医学者が言うことだが、”そう言った”時点からそのヒトは見事に、おじさん・おばさん的に変態していく。さげすむのだから当然かもしれない。
だからと言ってマゾのように忍耐で我慢する必要も無いし、他人は他人で勝手にすれば良い。

アウトとは大竹伸朗さんの言葉、そのまま引用だが、
かと言って、烏合の群れのように、いい歳こいて女子会だ・美魔女だと言っては、一見つるんでいるようにみえて・実はお互い死ねと思っている女同士の同調しているフリ。そんなみにくさ・あさましさの結晶のような痛ましい光景写真には、眼をそむけたくなる。
(まだ、ジェーン・スーさんの「きさまいつまで女子でいるつもりだ問題」は読めていない。)

私は、男女関係において、未だ全てゆきずりの関係で終わっており、社会公認/容認の法的夫婦生活制度に準拠したことが無い。その背景が大いに作用しているのだが、四十後半になってまで、年齢相応的(?)意識が全然ない。
よく開き直った「おぢさんの日々のつぶやき」といった類のブログなどがあるのを見るが、正直感心しない。年齢とヒトのありようは別であるにも関わらず、なぜだか味噌もクソも一緒にしてしまう人に虫唾が走る。目茶目茶だ。

2013年10月10日
じゃあ、夢中になっていた所から、死を強く意識し出した昨年後半から今は、どうなのだ?と自らに問う。
言えば、死を意識しない生よりもまっとうじゃねえか、と強がってみる。思っている。日々の純度は増すはずだ。
生が永遠どころか、今の後がある保証は無く、今があるのみである。常に今だけがある。
この意識はそれなりの歳となったから、でもなく、過去クライシスになったとき、十代で狂気に至ったとき、死を覚悟した阪神淡路大震災の夜明け等、今迄も様々な場面で立ち現れたもの。

こういった姿勢を、いつものネガティヴな考えでしょ、としか捉えられないヤカラが多い。あるいは、こういう語りをするとき、その場の周囲は“またまた冗談を”と流して終わるのが大抵である。

私は半笑いで流している者の顔を、じいっと見て終わる。彼らは、その深淵を覗いて抜けられなくなるのが怖いから、彼らにとって触れてはいけないぬかるまを意識の外に出そうとする。彼らの中では、差別対象化して排除する意識しか無いのだ。

言わんとするなにがしかは決して通じない。所詮他人はそんなもので、いつものごとく。
過去80年代で言えば、このようなことを言う者は、発言するのみで「根が暗い」とレッテルを貼り、隔離・差別されたように。
よくメディアは表面づらで「いじめ撲滅」など安易な発言を行うが、一方ではこの平成二十六年「メディアと市民が協力し合って」公然と目の前で吊るし上げと袋叩きを実行し、結果自殺者を産むに至る事件を幾度も目撃した。「こらっ」と叱る行為とのへだたり。
殺人実務に民間人が加担する、狂ったありようが浮かびあがる。

そんな半笑いする他人は、大地震や天変地異が来た途端に、緩かった表情から正気の真顔に帰る。その様に大笑いする場面は多々ある。
面白いことに、311後の流れ同様、一瞬覚醒した意識はそのときだけで、一定の安静に戻ればすっかりと忘れ去って、再び都市生活の催眠に掛かってしまう。

2013年10月10日
こんな昨今の自分が、いっそう悲観的なのか、と思われるだろうが、そのようなことはない。
このカドを曲がったらどんな光が街を照らしているのだろうかと、外に出たら最後、ずんずん路地を進み写真を撮り歩きまくっている。帰れば、ノリ・ハサミなどの道具で延々とゴミスクラップを作り、ノートにメモ書きをする。
一方では、志村けんさんの下町物語を見たり、ジェーン・スーさんのラジオを聞いては大笑いしている。

ヒトの感情には、白も黒も無い。
だのに、ありていに分析したかのような、屁みたいな理屈で済ませ、それで安堵している。常識なり、常人あつかいするものをあらかじめ決めておいて、それ以外を排除するのが世間。
これが日本人・東京人とはもはや呼べなくなってしまった、でも(一応)日本・東京という地に住む、催眠術に掛かった多くの支配者とそこに擦り寄る者のありさまである。

デヴィッド・リンチ 「頭の記憶」1994
ネコにこんばんは。
最近、とある資格試験とやらがあり、年齢に関わらずこういったものを受験した者が多く居た。
横並びが大好きな、この国の者は「キミは受けたの?なんで受けなかったの?」と不思議がるが、むしろこちらが不思議に思う。いつまで「お手手つないで」と隣組よろしく相互監視と縛り合いをしているつもりなんだろうか。年齢浅い者が受けるのはまだしも、同年代や上の人が、世間からの強要に負け潰されている様、としか目に映らない。

カルチャースクールでは、古典などを勉強する人が増えているという。そういう場は他の人との交流で友人・知人が出来たり、新しい発見があったり、今生きる上で参考になる理由等からうなづける。
しかし、英語に始まり、資格を取得して、生きる糧にしようというもくろみは、まだ仕事を始めて浅い時ならまだしも、四十を超え・311を超えた者がやることではない。学ぶ場が愉しく、今に確かな手ごたえがあれば良いが、それをメシのタネと考えてしまう自体に危険さを感じる。
いずれにしても、こちらには関係が無い。
ネコに小判、と言うが、こちらもネコさん同様、資格よりも目の前の白いご飯の方がうれしい。

■Chris Isaak 「Wicked Game」1989■

デヴィッド・リンチ 「横たわる姿」1994
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2014年10月5日 日曜日深夜 台風迫る夜

2014-10-06 01:20:50 | 雑記帳

10月は神無月、かんなづき。
土地土地の神様が、みんな出雲に集まってしまうから、神が居なくなる月、と言われているが、持っている神道の本をぱらぱらめくっていると、この本では「それは俗説」と書いてある。

10~11月は、収穫祭や秋祭りが各地で行われるので、不在というのはおかしなことで、「神の月」の「の」が音から「無」に変わったという。
そう言われるとしっくりくる。

じゃあ、元々、日本で「神」と呼ばれるものはどんなもの?
と調べると、江戸中期の国学者である本居宣長(もとおりのりなが)の解釈では、「神」とは”人智では理解出来ないものや、その働き”。
カミを、カ(火)ミ(水)と源とする説もあるようだが、宣長は「・・・龍・樹・霊・狐などのたぐひも、すぐれてあやしき物・・・」と記した、という。

今日は台風の影響で一日雨降り。室内に居る時間が長かった。
午前0時の段階の情報では、四国沖に台風は居て、明日朝には関東を直撃するコースになっている。

NHKラジオ深夜便を聞いている。日曜夜の担当は、明石勇さん。
枕元でミニラジオに耳を傾けながら、おやすみミュージックを。


■大貫妙子 「彼と彼女のソネット(T'en Va Pas)」■
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2014年9月4日 木曜日 予定外不調和

2014-09-04 22:38:19 | 雑記帳

ひと気無い夜の駅まで歩いて、十分に一本の電車に乗ると空いている。空いていてもそれなりにヒトが座り、立つ派・よっかかる派がランダムに配置された光景。
ところどころポツっと空いた空間があり、そこに座って本を開く。静かな車内となっている。

一駅ごとにヒトは降り、目を上げるとすぐにスカスカの横並び席に一人になっていた。
家の冷蔵庫でひたひたとキュウリは浸かっているだろう。揺られながらそう思う。

元気よく伸びたキュウリの苗は、未だに実を付けており、それを収穫しては刻んで塩こうじに漬け込んでいる。
今夜は、冷蔵庫にある食材をどう組み合わせて、食事をしようかと考えてみる。
大根は大根おろし、長ネギは細かく刻んで納豆に混ぜよう。
枝豆・にんにく・生クリームがあるから、パスタを作っても良いな、と思うが、和風の食材とは合わない、という地点に至って、もう一回考え直す。
別に組み合わせなんかどうでもいいじゃないか、と思うもう一人と会話をする。

***

そう想像しているのも、電車に揺られている間だけで、いざ帰ってどっかと座って缶ビールのプルを開けてしまうと予定はどこかに行ってしまう。
「そうじゃないかい」と振り返る。
ある程度、予定通りに食事を作った日でも、思うほどに量が食べられないものである。そうして残りをラップにくるんで翌日に持ち越しがちである。

先日、一緒に寝た女性に裸体をなでられながら、痩せたように思うけど大丈夫?と尋ねられる。「ちゃんと食べているよ」と言ったが、少し痩せすぎだと思っている。
普段、一定期間を置いて遭う仕事仲間等々、同じようなことを必ず言うんだよ、と流す。

少量でも体力付く食事は何だろうと、揺られながら、結果、島に着く。

先日までセミたちのシャワーだったのに、今日では鈴虫たちのシャワーを浴びて、その場所を通過する。ネコたちが森で眠っている。
わずかな光から眠るネコの背中のカーヴの輪郭と無事を確認する。

歩くうちに閃いてマグロの刺身を買い、帰るとすぐに醤油・だし汁・塩こうじを加えて冷蔵庫に寝かせる。
米を一合研いで、ざるに上げ、水がしみ込むのを待ちながら、缶ビールを開ける。浸かったであろうキュウリの浅漬けをつまんでみると、水々しくておいしい。支度をしながらのつまみ食い。

■ドーム 「An‐An‐An‐D‐D‐D」1981(アルバム「ドーム3」)■




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2014年8月24日 日曜日 表層的なごまかしの果て

2014-08-25 00:22:06 | 雑記帳

東京オリンピックへ思う意志に変わりはない。
そんな6年後の「予定」話とは別に(それが無かったとしても)建築業界はとうにおおごとになっている。
(物流業界も。或いは別の分野も。)
しかし、街を歩くと、あちこちとごっそり無くなってしまった空き地と建築予定の看板が立つ2014年。バブル時代の有様にそっくりである。

”景気が良くなった”も何とかミクスとやらも丸々真っ赤なウソだが、この二十年以上にわたるデフレは、心骨皆を疲弊させ続け、その結果が今に繋がる。
さらにごまかし、多くのものを置き去りにしようとしている。

建築は間接的余地を削り取り、値段を叩きに叩いた結果、最終的に職人さんが仕事を離れ、後継者も不在となり、移民を考える状況にある。
建築に露呈したこの事象は、全てにあてはまる。
それは働いている人なら、皆・皮膚感覚で分かっている事実。

近時”ブラック企業”とやらが取り沙汰されているのは、表面上話題に上るくらい、グローバリゼーションの結果、どこに行っても同じ街と見える位に寡占化し・濁流に飲み込まれていく様の中で、広告代理店とマスメディア結託隠蔽の限度も超えたからとも見えなくもない。(が”彼ら”には手落ちはありえないから、それも想定内だろう。)
宮台さんが放送でポロッとつぶやいたように、既に日本社会は回っていない。

モノを作る人、手を労して働く人、技術を持ったマイスターたる職人さんをむげにして、コストカットし続けた結果、そういった方をダメにした。今更”育成”と言うが、気付くと手遅れ。
先日ラジオで某企業が”十年前から想定し、育成してきたので、うちは大丈夫だ”とラジオ局にカネを払って・PRしていたが、これも事実かどうかは甚だ疑わしい。

そうは言えども、今までは何とかその時々、大建築企業からの下請けへの圧力に対し、その場をしのいでいくしかなかったのも事実。
しかし結果的に、骨抜き空洞化は止めようもない今に帰結した。

東京オリンピックという策略とニンジンは、今後6年保証担保されうることから、海外の方々を誘導する事を視野に、カネでねじこみ・決定したのだろうが、文化や家族と心を持った人がそんな簡単に右から左に移る訳はない。
この場に及んでまで、まだ切ったり貼ったりで一時しのぎしよう、という思想で動く連中では無理だ。

***

あまり悲観的現実のみ言って終わる話ではないので、少し付け足すなら、ごく一部の心ある企業の人たちは、家族ともども受け入れて一緒に暮らしながら歩もうとする動きは出ている。まさに同じ釜のめしを食う生き方。
それは、かつて家族的日本企業が持っていたものでもあり、今もちいさくても家族同様で一緒に働く中小企業の親方が歩んできた生き方である。

物流業界と言えば、トラックの”運ちゃん”を大型車に乗せつつ、更に”笑顔を持って運べ”なんて言う”セールスドライバー”までを要求し、法律罰則も強化した末、この仕事で働こうという成り手が不在に至った。
先を見据え・自らの足元を見て・歩いてきたクロネコヤマト以外は、挽回不能”出口なし”の今となった。

それを”カンタンなお仕事で収入増を”と、運転免許を持つ主婦パートで穴埋めしようとしているが、それも無理で、カンタンに荷物が運べないXデイはすぐそこにある。

首相と経済界と世間は、”やっぱりこれからは女性でしょ”と女性”全般”をあおり・くすぐりを入れるが、背景は、労働者不足を補うのは、多能工が可能なる主婦・女性層だ、とすがりつく事実があるのみ。

***

PS:ここへアクセスされる方を見ているうち、他人たる過去の”私”の残骸の中に、比較的冷静な記事を読み、久しぶりにこの曲を聴いていた。



■坂本龍一(&デヴィッド・シルヴィアン) 「ワールド・シティズン」2004■
お台場・ゼップ東京に、教授の立ち見ライヴを観に行ったのも約10年前なのか、と今日知る。
バンド・スタイルで「ビハインド・ザ・マスク」から始まったこのライヴは、本当に素晴らしい有機的演奏だった。

坂本龍一&デヴィッド・シルヴィアン 「ワールド・シティズン(世界市民)」
ここで何が起こったんだ?
蝶は羽根を失った
空気が濃すぎて息苦しい
飲み水には何かが入っている

陽は昇る
陽は昇るけれど、きみは独りぼっち
目的も見失い
流れのままに101号線の迷路へまぎれこむ

空から降り注ぐニュース
何もかも
今日は明るいものばかり
そう思えないのはきみだけさ

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

ここは安全じゃない
空気が悪くて
黄色い鳥(注)は総倒れ
ここは安全じゃない

ぼくらはなぜ存在できないの?
始まりや終わりなしでは
ぼくらはなぜ存在できないの?

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

もし立ち止まって
きみの話を少し聞いたら
きみが感じているすべての重みに
打ちのめされてしまう
孤独な心の緊急事態

感じたい
心がはちきれそうになるまで
この世でかなうものなら何でも与えてあげたいのに

破りたい
日常を覆う無関心を
覚醒しつづけられる良心がほしい

失望なんてするものか
失望なんてするものか
するものか

顔が見えた
知らない顔だった
彼女の悲しみは、ぼくの悲しみを丸ごと映す鏡

忘れられない顔
思いもかけないとき、現われる彼女
ぼくらを隔てる時間と空間は消えた

でも、ぼくは安全じゃない
皮膚がもう一枚ほしい
安全じゃないんだ

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

夜のあいだに旅したい
草原や海原を越えて・・・
消えてしまったあらゆる種の
損失を測り
その名をすべて正確に読み上げたい

ワールド・シティズン(世界市民)
ワールド・シティズン(世界市民)

失望なんてするものか
するものか

彼女は笑わない
舞台は喜劇(コメディ)から商売(コマース)へ変わったのさ
彼女はもう、歩いても地面を感じない

ぼくは目をそらす
寝苦しい夜
これじゃいけないとわかっているけれど
どうしたらいい?

失望なんてするものか
するものか

(注)かつて鉱山で一酸化炭素などの中毒を防ぐため、鉱夫たちが検知器がわりに鉱道へ連れて下りたカナリアのこと。
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2014年6月18日 水曜日 暮らしの風景 ~旬(しゅん)をあじわう~

2014-06-18 22:01:14 | 雑記帳

【ふうー、疲れた】
TBSラジオ平日午後の番組「たまむすび」を聴いていると、最近楽しすぎてニコニコしてしまう。
そこには、”タマちゃん”こと赤江珠緒さんの可愛さが確かにあるのだが、どうもそれだけではない。

番組「たまむすび」が始まった時の広告を見たときには、「ああ、また浮かれた女子アナの番組か。。。小島慶子氏の番組が終わったのか。。。」とだけ思い、脳裡に拒否反応が浮かんだ。

ラジオというものは、単純に「容姿が可愛い」では聴き続けられない。
ラジオはいつも自分にとって、耳から入る情報のみからスタートし・その向こう側をイメージし・その世界が広がり・それが実態と乖離していても・・・その異世界を夢見れるか?否か?が基準となっている。

現代ではラジオ番組にはホームページがあり、容易にむしろ視覚情報が入ってしまう。
ただし、毎回毎回聴き続けられるには、魅力が無いといけない。
過去で言えば、「教授のサウンドストリート」への想い入れは1981~1983年が濃厚に体内に染み込んできたが、それ以降は(ゲストにも因るが)それまで絶えず聴き続けた熱心さが自分には無かった。

【夜、実家で取った梅の梅干しつくりをする】
当初「たまむすび」に拒否反応を示した自分だが、昨年、休みにカメラを持って街歩きをしながらイヤホンをして、晴天好日の折、公園でタバコを吸ってぼうっと聴いているうちに、幸福感が舞い込んだ。
それを契機に、ガラリと思い込みは変わった。
なんとコロコロした可愛い番組なんだろうか、と思った。

【愛する竹中直人さんがゲストの回】
確かに赤江珠緒さん自体の容姿は可愛いが、たいていそういう人のラジオほど、実態はギミックが透けて見えてつまらない。
だが赤江珠緒さんが兵庫出身というのが大きく作用していると思うが、おおらかで気取らない。
そこに投影されたものは、自分が体感した関西の女性との経験。それがダブって聴こえたのかもしれない。
よくピエール瀧さんが赤江さんを「制服来た中坊に見えて仕方がない」と言うが、自分には小学校の同級生に居た女の子のイメージがオーヴァーラップする。

【赤江さんと瀧さん】
じゃあ、赤江珠緒さん1人でこの番組の魅力が成立しているのか?
というと、それも想像しがたい。
月曜日から木曜日へ、4人の相手をするパーソナリティとのコンビネーションがあってのことと思う。

月曜日・・・カンニング竹山さん
火曜日・・・山里亮太さん
水曜日・・・博多大吉さん
木曜日・・・ピエール瀧さん

やっと「旬(しゅん)」な時期になり、こなれて実ってきたようにみえる。
4人との会話のキャッチボール/支えがあってこそ、赤江珠緒さんの魅力が引き出されている。

【瀧さんと竹山さん】
月曜日・水曜日も好きだが、個人的には、火曜日・木曜日が好きである。
竹山さんは、過去深夜3時からのラジオを聴いて「この方は、お笑い(視覚)よりラジオに適した人だなあ」と、声と語り口に魅力を覚えた。むしろ竹山さんは1人でのラジオの方が向いている。

その一方で、山里さんにはお笑いにも(と言っても過去のテレビだが)深夜ラジオにも、必死さが前面に出てしまっていて、特に後者は聴いていてこちらが苦しくなるほどだった。
しかし、むしろ山里さんは合い方が居て・そのサポートという役割の方が良い。
「たまむすび」においての山里さんは、とてもリラックスした余裕がありながら、赤江さんと絡むことで良い引き出しがわんさか出てくる。

番組にも人にも音楽にも「旬」の時期とそうではない時期がある。
それは周囲との関係性だったり、時代だったり、努力も偶然も作用する。
(それを越えて、絶えず輝ける人こそが、アーティストなのだろう)

この後どうなるかは分からないが、ラジオ番組「たまむすび」は今が旬である。

■「たまむすび」6月3日の一部■
みうらじゅんさんが作った「マイブーム」という概念が示す通り、自分が旬と思ったときが夢中になるとき。
そんな果実を毎日味わえる喜びを覚える近時である。

【梅をビン詰めして寝かせる】
PS:過去、営業車を転がしている頃聴いていた、小西克哉さん&松本ともこさんの「ストリーム」がとても好きだった。
番組終了を非常に残念に思ったが、このとき作られたコーナー・ゲスト・フォーマットは今も変わらない。
ゼロか100かではなく、こういった蓄積が産み出したものを大事に継承していることも、「たまむすび」の楽しみの1つである。
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2014年6月8日 日曜日 暮らしの風景 ~村祭り~

2014-06-08 12:30:42 | 雑記帳

寝ぼけまなこで、9時過ぎに目覚めると、大地のような原始的音が聴こえてくる。
昨日、梅雨の大雨に足止め喰らって、一日じゅう室内に居て窓も開けられず、すぐれない心身状態に居た。

今朝は雨も小休止。
そんな中、空気を入れ替える意味もあって、窓を開けると祭りばやしが聴こえてくる。
笛と太鼓の音。

『む~らの鎮守の神さまの~、今日~はたのしい、お祭り日~、どんどんひゃららら~・どんひゃらら~、朝から聴こえる笛太鼓~・・・』
ついYMO散会アルバム「サーヴィス」で、小倉久寛さんが歌う声が脳裡に。。。

■YMO  「Service(1983)」より 「村祭り」(スーパー・エキセントリック・シアター)■
昨日今日は、この島の守り神・白鬚(しらひげ)神社の祭りの時節。
かつて寺島町だったこの地は、隅田川の氾濫・水害に遭って亡くなった方などへの祈り・祖先と家族の無事を祈って、地元の人たちは白鬚神社に集まる。

白鬚神社は毎週のよたよた小旅の終わりに寄っては、一休みし、手を合わせる。
6月の終りには、半年無事であったことと、それからの夏越(なごし)の祓えが行われる。

東京にも、こんな穏やかな優しい地が残っている。
露地に入ると、地面に白墨で自由に絵を描いたり、鬼ごっこ、縄跳び、木登り、そんな姿をする可愛い子供たちに出会ったりする。
もはや失った風景かと思っている中、まるでそれは自分が幼少の頃当たり前だった風景そのままで、タイムトリップしてしまったのか?という幻に襲われる。

***

人が集まる「人ごみ」だらけの「人工的に作られた」地域の、大規模祭りに行く元気は、今の自分には既に無い。どうにもこうにも苦手だ。
むしろ回避したいという風に、行動する。

千葉でずにーらんどに行くのと並列で捉える、楽しければ何でも良い、という思想の人びと。
そんな出生場所も判らない・根無し平成家族とは相容れないので、そういう一部の家族は適当にあしらうことにしている。

しかし、開けた窓からお囃子が聴こえてくるのは良い感じ。

そんな中、お湯を沸かしてお茶を煎れて頂き、「おお、10時になったな」とTBSラジオをひねる。
「安住紳一郎の日曜天国」が始まる。

昔・不思議ちゃんだった時代の釈由美子に似た雰囲気を持つ、ほんわかした中澤有美子さんとのやりとり。
良いコンビの2人、そして周囲のスタッフさんたちが楽しく番組作りをしている様が浮かぶ。

最近の「たまむすび」の楽しさも含めて、ラジオの楽しさを改めて味わっている日々。
やっぱり自分の根っこは、ラジオ人間なんだな、と思う。

***

金曜日から絶えることなく、時に強く、ひたすら降り続けた雨。
安住さんの番組冒頭のお話しでは、東京の年間降水量がおおよそ1,500mmのところ、この3日間だけで300~400mmの雨が降ったらしい。

この数日の雨で心配だったのは、近所ののらねこさんたち、それに、育てている植物たち。
しかし、植物たちは朝顔以外は、持っているチカラで「えっこらえっこら」と頑張っていた。
「ええっ?」と驚くような様で、ぐんぐんと葉を大きくさせて巨大化。
プランターからはみ出すような勢い。

ゴーヤくん

きゅうりくん
(実はうどん粉病にかかってしまい、栄養剤や薄めたお酢で葉っぱを拭いたりして看病しても元気が無かったのだが、復活の兆し)


一歩リードしていたピーマンくんは、葉の大きなみんなに囲まれてしまった

「かあさん」にもらった不断草は、この3日で倍増

このままではまずいので、今日もこの後、園芸店に行って道具を買い、夕方から植え替えと、ツル植物のための支柱作りをしようと考えている。

「安住紳一郎の日曜天国」では、安住さんが「来週からワールドカップサッカーが始まるけれど、来週も普通に番組をやる」が、誰が聞いてくれるのだろうか?と日曜天国らしいお話しの振り方をしつつ、みんなの笑いを誘う。
来週は、みうらじゅん兄貴がゲストとのことで、聞かねば。。。

山積みにしていた雑誌類を整理したら、サウンドールもカビが生えだしたので、風が入る日の差す場所に出した。
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2014年6月5日 木曜日 暮らしの風景 ~梅雨はもうすぐでしょうか?~

2014-06-05 19:51:09 | 雑記帳

【今朝、ゴーヤくんの花が咲く】
昨夜は、とあるきっかけで愉しい一席。
しかし、一日の1/4酒を酌み交わしてしまったせいで、カラダを崩してしまった。

今日はしんどい朝に始まり、午後、近くて遠い旅先に出向き、打ち合わせ。
次第に睡魔に襲われると共に、カーッと体の内側から来る暑さと危ない汗が出始め、意識がもうろうとしてくる。
「それなりのことはしましたよ」と仏様に言って、早々に帰路を辿る。
おなかも調子悪く、何度も痛くなってはトイレ通いをしていた。

肝臓関連の血の値のみは戻ったここ1年だが、単なる値などは目安に過ぎず、一回打撃を受けたものが元には戻りはしない。
「おまえは、酒をたらふく呑める身分じゃあねえんだぞ」と自分をいましめはするが、だからとゼロ酒に戻すつもりも無い。
要はバランス・適当ささえあれば良いんだ、と思っている。

そんな今日は、ネガテイヴなことばかりか?
となるが、そのようなことでも無い。

まずは一旦30℃越えの暑さが去り、雨がちゃんと降る6月らしい温度の日であったこと。
朝、仕事をしながら、インターFMを聴いているとピーター・バラカンさんはウェザーリポートを選曲。
ピーターさんの声と(定期的に刻むドラムの無い)ジャジーな音は、二日酔いの朝にはとても優しく・心地良い朝だった。

気分が悪くても吐くことが絶対出来ない自分のカラダ。
それを一番知っているのは、本人のみ。
水分摂取と栄養でしのぐ方法でしか、そのような状態を治癒させることは出来ない。
出先で食べた、温かいおそばがおいしかった今日。

それでも調子悪い中帰る道で、暮らしに必要な資材物資を買わないと。。。と途中降りる。
統計学上、独身は妻帯者より短命という話があるが、誰も頼む相手が居ないから全部自分でやることで疲れが出ることは事実である。

だが、傘をさして店から店へと伝う中で、店先にまどろんだ・気まぐれネコさんが毎度のように居てくれた。

さわると伝わる体温と呼吸に安堵する。尻尾をポンポンとしながら、何かを言っている。
お地蔵さんの顔も好きだが、ネコが目をつむった表情は、何とも言い得ないものをこちら側に与えてくれる。

手馴れた陰鬱は、角度さえ変えればコロッと変わる。
有事下での切迫した時間以外は、幸も不幸も、たいした事実でないことだったりするのが往々なんだろう。

■ウェザーリポート 「お前のしるし(A Remark You Made)」1977■
高校時代にクロスオーバーイレブンでエアチェックしたテープ。
そこに収まったこの曲は、未だに忘れられない解放区で鳴る。
鳥ではない自分にもハネが生えて、宙を舞うことが可能な一曲。
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2014年5月29日 木曜日 暮らしの風景 ~とある日曜の道端で~

2014-05-29 22:38:58 | 雑記帳
今、フダンソウという草を育てている。
漢字では不断草と書く野菜。
この休みの日曜日に、86歳の「かあさん」からもらったものである。

「かあさん」は、これをお味噌汁に入れたりして、食しているという。
フダンソウ以外にも、植えたニラを抜いて、匂いをかがせてくれた上「持って帰れ」と持たせてくれた。

仕事の無い日に、島めぐりをするのは、今の愉しみだが、花草が美しく咲き乱れる季節には、道端に咲いたお花や青々した草にシャッターを向ける。
特に好きないつもの道や角っ子の今日は、どんな具合になっているかな?」。

日曜日にも、とあるお気に入りの道、10m近い長さに植わった花草を眺めていた。
ところ狭しと色んな種類の花草が、どんな季節にも眼に潤いを与えてくれる場所。

写真を撮るため、自転車に乗った方を見送りつつ、人のじゃまにならない状況になってから、シャッターを切った。
対象は、アジサイである。
そうすると、後ろから86歳の「かあさん」が。。。

自分は、「いやぁ、とっても鮮やかな色をしていたもので。」と、煙たがられた場合の言い訳をしつつも、営業トークのように「かあさん」に声を掛け・口上を述べていく。
しかし、「かあさん」の方は、自分を不審げとは思わず、「私がみんな育てとるんよ」と話し出した。

【「かあさん」作のきゅうり】
「かあさん」からの講話説教は、道端で約1時間半に及んだ。
説教とは「叱られた」という意味では無い。
どう生きるべきかを、「かあさん」の人生を聞いていった結果のことである。

本当にたくさんの種類のお花と野菜たち。それを全部説明してくれて、この20年近く掛けてここまで広げてきた経緯を聞いた。
86歳とは思えない声の大きさ。気取りが一切ないべらんめえ口調と大笑い。
ただ音量が大きいのでは無い。ハラから出ている声である点がすごいのだ。

途中、自転車で寄られた近所の奥さん。2人で見るアジサイの前に、自転車が止まる。

「どーしたら、こんな色良く咲くの?
こないだ墨田区(催事などでだろう)からアジサイ貰ったけれど、全然花が咲かないのよ。
どうしたらいいの?」
かあさん「何、上げとるん?」
奥さん「何って。。。お水。」
かあさん「水しかやっとらんのかいな!?」
奥さん「そうよ。」
かあさん「そりゃ、咲かねえわな。」
奥さん「じゃあ、どんな肥料がいいの?」
かあさん「咲かねえな。こんな時期になってから、肥料上げたって手遅れだわ。
うちのアジサイ、色が良くなった頃合いで、またおいで。1つ上げるから。」

「かあさん」の育てた花草は、どれもが元気で、花は確かに美しい。
だからこそ、自分はこの道が好きで、よく立ち寄っていたのだった。

土も、それを防御する板も、工事現場に行って、現場の人に断りを入れた上で貰ってきたという。
雨の日、風の強い日、カンカン照りの日、、、毎日毎日、4~5時間もかけて面倒を見るのだ。

かあさん「そりゃあ、もう40歳まで苦労多かったからねえ。
もう仕事を引退したから、時間を掛けられるんだけどね。」

元々は、押し花教室に通ったのがきっかけだった。
お花を扱っているうち、興味が深まり20年前に少しづつ始めた園芸が、次第に種類を増やしながら広がっていったらしい。

さすがだなあ、と思ったのは、四季おりおりの花と草を上手に配置していること。
花や草は、それぞれが輝く季節を持っている。
「かあさん」はそれを熟知の上で、春夏の中では、空いた場所に秋冬ものを育て出し、四季おりおりに季節を感じさせる花草が見られる工夫。

「自分も、昨年はゴーヤを育てたりしまして。今日も、色々道具を買ってきたんですが。。。
いろいろ調べては、プランターで育てているんですが、なかなか難しいですね。」
ちょうど手に持っていたのは追加購入したプランター。
かあさん「そんな調べても分からんよ。自分で育ててみて実体験しながらじゃなきゃ。」

最後の頃、話していた会話が印象的だった。
「さっき来た奥さんみたいのに、花なんか咲かせられるかいな。
水だけ上げたってダメさ。草だって旨いメシだって喰いたいときだってあれば、酒も呑みてえわな。
人間だってそうだろ?
お前喰いもんとカネ置いとくから、勝手に生きろ、って具合じゃ、ロクなヤツは出来ねえ。

毎日毎日愛情注いで育てるから、花だって咲いてくれるんだ。
全部の生き物の基本は植物。植物が二酸化炭素を酸素にしてくれている。
それで、あたしもあんたも生かされておる。」

自分「はい。そうでございますねえ。」
まるで映画「男はつらいよ」での、御前様演じる笠智衆さんに教えを乞うて、下を向いた寅さんの図のような風景。

「大荒地野菊というのがあって、そんな隙間にゴーヤが。。。」という点は、「かあさん」に徹底的に言われて帰り、菊はプランターから抜いて、離れた場所に、持っていた鉢に植えた。

手を掛けて上げねばならない草と、自ら風来坊として放っておいても育つ草は分けねばならない。
そうして、帰った勢いで整えたベランダのプランターはきれいになった。
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2014年5月27日 月曜日 暮らしの風景 ~雨の朝~

2014-05-27 05:46:18 | 雑記帳

窓を少し開けて眠っていた。
夜に降り出した雨。永遠と降る。
そんな中眠ってしまった夜。

この時節、夜明けは4時にはやってくる。

不意に目覚めると、ひたすら降る雨の音が聴こえる。
カラダは横になりながら雨の音に耳を傾け、しばし過ごす。
雨音が、次第にタルコフスキーの映像の雨音に聴こえてくる。

かつて東西ベルリンの境目でイーノと共同生活をしていた、デヴィッド・ボウイが影響を受けたその後に語った話しが浮かぶ。
夜、音楽を聴かず、水道からしたたり落ちる水の音、開け放った窓の外で鳴る虫たちのざわめき。
そればかりを聴いていたボウイ。

■ボウイ 「苔の庭」1977■
二度寝出来ず、植えた植物たちに向かい、雨に打たれる様を見て、葉っぱをさわる。
青々した葉っぱ。

顆粒の栄養剤を撒きながら、それぞれの育ち具合を見る。
それぞれの内発的自力具合が見える。
ピーマンくんが、ぐんぐんと育っているのが良く分かる。
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